2015年1月28日水曜日

国際政治についても書いてみる

(更新1:7月7日 何かの不都合で文章の順序が狂っていたので整序しました)

授業でMearsheimear&Walt(M&W)のIR理論に関する論文を読んだから、ついでにLakeのIR理論の論文も読んでみた。やっぱりというか、 残念ながら、M&Wは現在の潮流というか水準から考えると、時代遅れな偉人になってしまった感じが否定できない。
M&Wは一貫して「IRの理論にもっと注目しろ」と主張する。現在のIRは陳腐な仮説検証を繰り返しているにすぎず、理論が疎かにされていると。社会科学の進歩を信じる身としては、理論が重要だという主張それ自体は完全に同意である。しかし、陳腐な仮説検証が繰り返されているだけで理論が発展していないという彼らの現状認識は正しいとは思えない。
さらに、Mearsheimerの「攻撃的リアリズム」という「理論」は論理的一貫性がないことが指摘されている。戦争原因論としての「攻撃的リアリズム」も、実証分析が不十分であるため、論理的整合性のない宗教のような「イズム」の一つになってしまっているのである。


確かに定量分析の中には、「データを改善したら、過去の○○の分析とは逆の結果が見られたよ!」とか、「メソロドジーを開発したら、こんなことがわかったよ!」という実証がメインな研究もある(但し、実証分析の発展は理論の改善・構築に不可欠なのは言うまでもない)。しかし、理論的発展に貢献している研究も多々あるし、M&Wがこのような研究を見落としているとは思えない。すると、M&Wのいうところの「理論」が何を指しているのかが問題となる。彼らが考える「理論」とは何なのか。M&Wによると、それは「イズム」と名がつくもの(リアリズム、リベラリズム…)、又は抑止や観衆費用といった中規模なものである。W&Mを読む限りでは、よりミクロな理論は「理論」と呼べないようである。

ここでLakeの論文を見てみよう。Lakeは、「イズム」と名がつく「理論」は単なる前提を共有している学問的伝統に過ぎないと看過する。旧来のIRは、「イズム」間で各々の信じる前提の優位性を討論するだけで、そこには実証的立場からの主張がないため、神学論争的だったという彼の主張は多くのIR研究者にとっては耳が痛い話かもしれない。Lakeの言うとおり、「IRの基本構成ユニットは国際システムか、国家か、個人か」「アクターは力の拡大を求めるのか、協調を求めるのか、正義を求めるのか」といった議論が実証分析なしに行われるている状況は、まさに「イズム」という宗教どうしの神学論争であったので ある。そして、こうした状況は1980年代までのIRでは頻繁に見られる光景であった。

こうした状況下に登場したのが、SnidalでありFearonでありPowellあった。彼らはフォーマルモデルをIRに導入した研究者である。彼らの貢献の一つは、「イズム」間の対立が本質的には同一の事象の特殊例を巡る対立であることを指摘したことである。たとえば、国家が求めるのは相対利得か絶対利得かというのは、ネオリアリズムとネオリベラリズムとの間の対立で見られるが、相対利得と絶対利得とはより一般化された利得に関する理論の特殊例であることが PowellやSnidalにより明らかになった。つまり、ネオリアリズムとネオリベラリズムとの対立が「木を見て森を見ず」という状況に陥っていたのである。

もし「イズム」に上記のような論理的整合性の欠陥が無かったとしても、「イズム」は分析の前提を提供するに過ぎない。つまり、現実を検証する仮説を構築するには、「イズム」による前提を基によりミクロな理論が必要である。つまり、Lakeの議論に則れば、M&Wが語るところの「理論」は理論とは言い難い。

「理論」を巡るM&WとLakeの主張を比較すると、Lakeに軍配が上がると言わざるをえない。M&Wが想定する「理論」は、仮説を構築する際の前提を提供するものであり、伝統的に形成された前提を共有するパラダイムに過ぎないと言えるだろう。しかも、その前提自体が、あるパラダイムに特有というわけではなく(多分無意識的に)かぶっている部分があるため、論理的に曖昧となってしまっている。

長くなってしまったが、結論的にはM&Wの主張はIRの現状を反映している訳ではないということになるだろう。部分的には適当な指摘があるかもしれ ないが、大筋としては旧来の「イズム」=理論という「理論」認識に引きずられている結果、こうした論考が生まれたのだと考えられる。IR理論の精微化はもちろん必要だが、それはM&Wが主張するような「イズム」に拘るようなグランドセオリーを構築することではないだろう。より論理的一貫性を突き詰めるような形で行われ、そこにミクロな理論が含まれるのも当然だろう。

以上を鑑みると、日本のIR教育はやや時代についていけていない感もする。以前に千葉大奈先生もブログで指摘されていたが、こうしたアメリカのIR界隈の現状を反映した教育がされてもいいと思う。別に「イズム」を教育から排除しろというわけではないが、どう扱うかという点では再考が必要だろう。たとえば、ミアシャイマーの攻撃的リアリズムの論理的不備や、利得を巡るネオリアリズムとネオリベラリズムとの対立の不毛さは、経験主義的な実証やフォーマルモデルの活用によって指摘可能であり、十分に認知させることができるはずだ。あくまでも「イズム」というのは実証分析を行う際の枠組みとして用いいるものであり、理論そのものではない。実際に仮説検証するにあたっては、「イズム」が「理論」として直接的に検証されるわけではなく、よりミクロな理論が必要だと認識してもらうことが大事だろう。


注) 但し、もちろん例外もある。昨年のISAの最優秀書籍に選ばれたBraumoellerの研究はグランドセオリーの範疇に入るものだが、フォーマルモデル を活用して理論を作り、統計的実証を行っており、さらに事例研究による歴史的実証にも取り組んでいるため、まさに仮説検証に耐えうるグランドセオリーの提示に成功したといえ、ミアシャイマーら過去のグランドセオリーとは一線を画すものだと言えるだろう。

出典は、M&Wがこちら。
Mearsheimer, J. J., & Walt, S. M. (2013).“Leaving theory behind: Why simplistic hypothesis testing is bad for International Relations.” European Journal of International Relations, 19(3), 427-457.
(http://ejt.sagepub.com/content/19/3/427.short)
Lakeがこちら。
Lake, D. A. (2011). “Why “isms” Are Evil: Theory, Epistemology, and Academic Sects as Impediments to Understanding and Progress1.” International Studies Quarterly, 55(2), 465-480.
(http://onlinelibrary.wiley.com/doi/10.1111/j.1468-2478.2011.00661.x/abstract) 

Lakeの方は、2010年のISA総会でのスピーチを基に発展させたものだと思われる。時系列的にはLakeが先なのだが、M&Wは反論して自ら墓穴を掘った感がある。

ちなみに、ミアシャイマーの攻撃的リアリズムの論理的不備を指摘した論文のうち、日本語のものはこちら。
市原麻衣子(2004)「攻撃的リアリズムによる戦争発生の論理ー防御的リアリスムとの比較から」『国際政治』 136、128-144。

相対利得と絶対利得の議論は多数あるが、代表的なものを参考文献にあげておく。
Snidal, Duncan. (1991). “Relative gains and the pattern of international cooperation.” The American Political Science Review, 85(3),701-726.
Powell, Robert. (1991). “Absolute and relative gains in international relations theory.” The American Political Science Review, 85(4),1303-1320.

ちなみに旧来のリアリズムを論理的に完全に沈没させたのがこちらのFearonの有名な論文。
Fearon, James D. (1995). “Rationalist explanations for war.” International organization, 49(3), 379-414.
もっと、こういった研究が日本の国際関係論・国際政治の授業でもっと取り上げられるべきだろうが、教科書をざっと見たところ取り上げているものはあまりないみたいだ。


鈴木基史先生の『国際関係』(東京大学出版会)くらいか。もし、他にもご存知のかたいたら教えてください。