2015年10月12日月曜日

日本の市民運動について

本当は研究を進めないといけないんだけれども、今日はやる気が起きないからブログを更新。

こんな記事を見つけた。

「国際NGO職員が国会前デモに参加して感じた「違和感」とは」
http://blogos.com/outline/138501/

ほぼ内容に同意したし、思うところがあったからブログを書いてみる。
ちなみに、今回の記事は特定の政治主張に関する市民運動を想定していない。右派だろうと左派だろうとあらゆる主張を展開する市民運動を対象とする。

記事に書いてあるとおり、各国の市民運動を見ていて、その目的が達成されるか否かに「ロビイングが上手くいったか」「与党側の有力者に接近したか、できたか」といった要素がある(台湾のひまわり運動とか)。結局、シュプレヒコールをあげただけでは、現状は変えることができない。

ここから一歩進んで考えてみる。日本の市民運動は、その主張の実現を望んでいるのだろうか。左翼系の団体なら、SEALDSをはじめとした国会前での抗議運動が一つの例だろう。右翼系の団体でも、国民の祝日に凱旋車に乗って、拡声器で政治的主張を声高に拡散している。こうした団体に共通しているのが、政治的主張を拡散しているだけに見える点である。

SEALDSが対象になって申し訳ないのだが、その活動の知名度が高いだろうから、例にしてみよう。SEALDSは、各地での抗議運動だけでなく、民主主義の価値をもう一度考えてもらおうといった趣旨の運動も行っている。ただ、安保法案に反対、という主張を実現するためには、もっとできることがあったはずだ。たとえば、自民党や公明党の有力者とにロビイングを行い、複数の法律の束であった安保法案の中で特に反対の部分(集団的自衛権に関わる部分)を別にした議論を求める、ということは可能である。これに自民党や公明党が応じないなら、それをマスコミに流せばいい。少なくともSEALDSは、真摯に対応しようとした、という姿勢を見せることができる。但し、今回のSEALDSに関連する一連の報道を見て、有力者にロビイングしたという記事は見ていないし、Twitterを見てもロビイングした痕跡はない。同様の姿勢は右翼団体にも見られる。彼らの主張は、南京事件などの歴史問題から北方領土などの領土問題に至るまで多岐にわたるが、どれほど真剣にロビイング活動しているのだろうか。

こうした活動に共通するのは、自らの政治的主張を実現するのではなく、主張するのに留まっている点である。政治とは限られた資源や政策の範囲で、妥協を繰り返す過程である。つまり、右翼だろうと左翼だろうと、自らの政治的主張を完全に実現することは不可能に近くて、何らかの妥協が必要になる。この基本を本当に理解しているのならば、ただシュプレヒコールするだけでは全く不十分で、ロビイング活動をする必要がある。

さらに、より専門的に言うならば、世論の動向を踏まえてMedian Voterへのアプローチも重要な要素である。自らの政治的主張の殻にこもっていても、何らかの政治的主張を実現するのは困難である。戦略的に行動するならば、中道派にアプローチするため、政治的主張を穏健な形で伝えることも不可欠である。SEALDSは、市民運動を身近なものにした点では成功したが、「デモに参加しないのは安倍の支持者」「こういう国難にデモに来ない政治学者は存在意義がない」という類の言動を繰り返すSEALDS周りの人々(SEALDS内部の人もいるのかもしれない)がいたせいで、デモに参加しないものの安倍政権に批判的な中道層の掘り起こしに成功しなかった。右翼団体の中にも、レイシストとしか思えない発言を繰り返し、良心的保守が離れているものが多い。

以上の議論を合わせると、結局のところ、政治は何らかの妥協の産物であり、ロビイング等を通じて、なるべく多くの「味方」を確保することが重要だということになる。妥協とは言っても「味方」が多ければ多いほど、有利な形での妥協、完全勝利に近い形での妥協を引き出すことができる。そして、いつも不思議なのは、右翼団体も左翼団体も中道派を取り込もうとしないことだ(ようにしか思えない)。さらに、活動方針には批判的なものの主張には賛同する、といった人々を排除しようとする[注]。自ら「味方」を減らし、団体の活動が先鋭化していく。これでは政治的主張を実現できるわけがない。

そこで、最初の疑問に戻るわけだが、本当に政治的主張を実現するのが目的なのだろうか。ここからは単なる疑念だが、単に主張すること、若しくは他の類似団体との競争が目的になっていないか、という思いを抱いてしまう。数十年前の左翼の内ゲバもその一種である。右翼だろうと左翼だろうと、市民運動が健全に機能している社会を私は望む。右にも左にも振れ過ぎた活動は不要だ。

[注]詳述しないが、主張をより広めるために活動方針の改善案を示すと、「いちゃもんを付けるとは隠れ安倍支持か」「SEALDSの足を引っ張るな」という返事が返ってくることが多い。これでは、心ある支持者は離れるし、それを見ている中道層もドン引きする。しかし、活動の中にいる人間はそれを分かっていない。

2015年8月13日木曜日

「アイドル最終兵器」

「アイドル最終兵器」
絶頂期の松浦亜弥に某雑誌が付けた愛称だそうだ。
当時の彼女の実力がどれ程のものだったかを物語るフレーズと言えるだろう。

ももクロの動画をYoutubeで見るようになってから、幸か不幸か、様々なアイドルの動画がrecommendされるようになった。その中に登場したのが「LOVE涙色」。最初は懐メロのような感覚で片手間に聞いていたのだが、彼女の歌とパフォーマンスに徐々に引き込まれていく。「Yeah!めっちゃホリディ」「桃色片想い」「ね〜え?」。リピートしまくりである。

連続再生していると、ある当たり前のことに気づいた。彼女はたった一人で舞台に立っている。それにもかかわらず、これほどの観客を魅了するパフォーマンスをこなしている。時代を遡れば山口百恵、中森明菜、松田聖子といったソロアイドルはいた。ただ、21世紀に入ってからはほとんど思い浮かばない。本当に松浦亜弥くらいじゃないのだろうか。

彼女の凄さは一人で活動しているということに留まらない。一人でステージ上を動きまわりつつ、十二分の声量と安定感のある音程で、客席全体に笑顔を振りまきながらライブを盛り上げる。ダンスもキレが抜群だ。別に激しい動きがあるわけではないが、彼女のダンスセンスの良さを垣間見ることができる。デビュー間近の映像を見ても、とても10代半ばの少女には見えない度胸があった。

最近、ももクロに肩入れ気味だから、どうしても松浦亜弥と比較してしまう。もちろんウリにしているポイントが違う以上、単純には比べられないが、ダンスと歌の質だけを見たら圧倒的に松浦亜弥の方が上だ。というか、松浦亜弥と肩を並べるアイドルがどれくらいいるのだろうか。それくらい彼女は完成されている。ライブの歌は、練習を重ねているからか、明らかにMVより上手い。ステージ上を走り回り、踊り、他の曲と連続で歌っているのにも関わらず、である。ライブという過酷な場面で、あれ程安定した音程と声量にが発揮されるのは、恵まれた声帯、強靭な肉体、そして積み重ねられたレッスン、こうした要素が松浦亜弥に備わっていたからだろう。

また、松浦亜弥のライブは極めてシンプルだ。ももクロのライブのように総合演出の要素は無い。本当に松浦亜弥の歌とダンス一本で勝負!というのが伝わってくる。個人的には、ももクロライブの舞台装置や多彩な出演者も好きだが、松浦亜弥みたいな裸一貫で勝負!というのもカッコイイと思う。
それと、松浦亜弥の煽りは本当に上手い。一人で回しているのに、ももクロと同じくらい盛り上がっている。

それでは、ももクロはパフォーマンス力で松浦亜弥に近づけるか。残念ながら、個人個人のパフォーマンスという点では厳しい。ももクロのメンバーには声帯と肉体の強さという二つの要素が欠けている。厳密には欠けている訳ではないが、松浦亜弥ほど備わっているわけではない。被せのないライブの映像を見ても、声量や音程、リズム感に乱れが大きい(有安杏果ちゃんは上手い、と言われることが多い。あの5人の中だと一番だろうが、彼女の独特な歌い方だとどうしても歌を選んでしまう)。努力で補える部分があるかもしれないが、メンバー全員18歳を超えているし、声量や音程という点で大きな伸びは期待できないだろう。

ただ、ももクロのライブは彼女たちのパフォーマンスだけではない楽しみがたくさんある。この点は松浦亜弥を大きく上回っている点だ。合間の茶番やプロレスなどパフォーマンス以外にも見どころはたくさんある。ライブの満足度は本当に高いはず。

結局何が言いたいんだ、という感じのブログになってしまったけれども。
何だかんだ、ももクロの皆にも松浦亜弥のパフォーマンスのレベルに少しでも近づいて欲しいな、という希望を最後に記してブログを閉じたいと思う。

2015年7月21日火曜日

初めての時事ネタ

一応、国際関係論を学んでいる者として、集団的自衛権についても書いてみようかなあと。但し、賛成or反対についてではなくて、別の側面から。今回の安倍さんの答弁を見て邪推(笑)したことを書いてみる。

賛成派も反対派も見て見ぬふりをしているのかわからないけれども、今回の集団的自衛権の議論で核心的に重要なのは韓国と台湾である。武力行使が許容される要件として、「日本と密接な関係にある他国への武力攻撃により日本の存立が脅かされ」というのがあげられているが、北朝鮮による韓国への攻撃、中国と台湾との間の台湾海峡有事は間違いなく、「日本と密接な関係にある他国への武力攻撃」と言えよう。その時の国際情勢にもよるが、米軍の介入は必至である。その際に日本がどのように対応するのか。ホルムズ海峡の話ばかり出てくるが、本来はこの潜在的に緊張要素の蓄積した東アジア情勢を語る必要がある。
それでは、なぜ自民党はホルムズ海峡の話ばかりして韓国とか台湾の話をしないのか。まあ、台湾の話をしない理由はわかる。中国を無駄に刺激するし、アメリカも安倍総理が「台湾海峡有事を想定している」と公言するのは嫌だろう。こうした発言はアメリカが台湾海峡有事に参加することを示してしまうからである(アメリカの台湾有事に対する姿勢は本当にのらりくらりという表現がぴったりだ。多分何らかのアクションを起こすだろうが、それを公言すると中国民衆が怒るから公言しない。中国側も分かっているが、アメリカの真意を正すようなことはしない。)。
それでは、なぜ北朝鮮による韓国攻撃のパターンすらも安倍総理は公言しないのか。官邸が想定しているであろう幾つかの可能性がある。第一に、韓国側が反発する場合が十分に考えられる。実際には後方支援しかしないにしても、韓国社会には自衛隊アレルギーのようなものが強い。朝鮮半島有事が発生したとして、自衛隊は後方支援すらも許されないかもしれない。集団的自衛権の行使に関する議論で、韓国社会からの余計な干渉を避けるために、朝鮮半島有事を口に出さないのだろう(あくまでも韓国社会。但し、政府は社会の意向を強く反映する以上、政府の発言も強硬になりうる)。
そして、ここからが邪推なのだが(笑)第二の理由は日本国内の集団的自衛権賛成派の支持を失う可能性があるからではないだろうか。集団的自衛権の行使を必要だと主張する産経新聞なんかは韓国に対して強硬な姿勢を崩さないし、読者もそのような人が多いだろう。すると、韓国を支援することに繋がりかねない集団的自衛権に反発するかもしれない。「何で韓国を救助するために自衛隊が派遣されないといけないのか」というわけだ。つまり、集団的自衛権が現状で人気が無いのに、貴重な支持をさらに失う可能性があるのである。
実際には、多くの国際政治学者は北朝鮮による突発的な軍事行動を恐れ、東アジアにおける日米韓の協力強化が必要だと考えているし、防衛省も同様だ。韓国の国防部や国際政治学者も似たようなマインドを持っている人が多い。しかし、残念ながら、集団的自衛権に賛成する層と韓国を嫌う層はかなり被っている。そのため、安倍総理が表立って日韓の協力強化を目指す政策を謳うことは困難である。
本来は韓国や台湾における有事を想定しているはずなのに、近隣諸国への配慮だけでなく国内的な事情も絡んで、ホルムズ海峡の話ばかり出てくる。ホルムズ海峡における魚雷の設置自体がかなり無理のある想定である以上、ホルムズ海峡に自衛隊を派遣すること自体がかなり想像するのが難しい事態である。
こうした想像するのが困難な事態を例にあげて展開されている集団的自衛権の議論は不毛極まりない。本来は、自衛隊員が死ぬかもしれない、捕虜になるかもしれない事態、湾岸戦争のときのように何もせずに世界から後ろ指をさされる事態、というように集団的自衛権の行使と一口に言っても様々な切り口から議論されるべきなのである。右も左も、双方ともに集団的自衛権の行使がいかなる議論と結びつくのか、出来る限り明らかにした上で議論を展開してもらいたい。

2015年7月8日水曜日

ヒャダインとももクロ

ヒャダインが再度ももクロと関わるということで盛り上がっているらしい。
ヒャダインとももクロが一緒に活動していた時期を知らないので、どんな絡みになるのかピンと来ないし、昔からファンの人のような喜び方はできないし、そもそも昔からのファンの人に言わせれば「新参がヒャダインかむばっくー!とかなんだ」って感じだろう笑
ただ、前の日記に書いたとおり、
1. ヒャダインは、ももクロを知る前から元々好きだった
2. 「怪盗少女」を大学の先輩に勧められ聞くようになり、ももクロの存在を知った(2010年)
3. 「怪盗少女」以外の曲はほとんど知らなかった状態で、ももクロにハマりだす(2015年春)
という、ヒャダインとももクロを完全に別個のものとして好きになってきた身としては好きなもの同士がコラボするのならば、それは嬉しい限りである。

とまあ個人的な感想はどうでもよくて、ちょっと気になったのが巷の反応。
ヒャダインの曲を待望!って人もいれば、今更ヒャダインの曲は幼稚なんじゃない、っていう意見も多い。また、ヒャダインを持ってきたのはももクロの停滞感を打破するためだと解釈して、ヒャダインの力を借りるのは悔しいというコメントも見られた。さらに複雑なのはももクロファンをやめた人の動向。聞くところによると、ヒャダインの曲を使わなくなったことを理由にももクロファンをやめた人が少なからずいたらしい。そして今でもファンの人の中には、ヒャダインと疎遠になったことでやめた人たちへの反発があり、中には彼らにももクロファンとして戻ってきてほしくないという人も。
どうやらファンの中でも多様な見方が存在するのが現状のようだ。

これらの意見に正しいものなんてないだろうし、今後どうなるか全く分からない。
ただ、もしヒャダインが今でんぱ組やエビ中に提供しているような曲をももクロにも提供するなら、今のももクロファン層とはまた少し異なるファン層が入ってくる可能性がある。つまり、DDと呼ばれるアイドルなら誰でも応援するような人たちである。

もちろんこれは一つの可能性に過ぎない。
ライブとか行かずに楽しんでいる身としては今後どうなるのかパソコンの前から見守っていたい笑

2015年5月25日月曜日

舞台「幕が上がる」を終えて

(追記1: 2015年6月1日)

夜遅くなってしまったけど、とりあえず未整理の状態でも今日中に書けるところまで書いとく方が良さそうだったので、書き残します。

ブルーシアター六本木で6月24日まで上演していた舞台「幕が上がる」についての感想です。映画の方は、「考察」としておきました。映画については過去にも分析して卒論も書いたことがあるので「考察」としましたが、演劇に関しては昔携わってはいたものの分析の対象としたことはないので「感想」としておきます(映画の「考察」についてはこちら)。

そもそもの発端は、「極楽門」を貸してくれた友人が、チケット取れたから観に行こうと誘ってくれたこと。かつてお芝居を作る仕事をしていた身としては是非とも行かねばということで、17日に観に行きました。あと、もっかい観に行きたいなあと思ったので、千秋楽のLVも今日参加してきました。
端的に言うと、贔屓目なしに見ても良い舞台だったと言えるのではないかと。ももクロの5人は映画の撮影から少しずつですが徐々に演技力がついてきたと思いますし、何よりも周りを固める1年生・2年生は素晴らしい脇役でした。実は映画版の考察を書いたときに演技力については言及しませんでしたが、それは映画の段階ではももクロの5人の演技力にまだ難があると感じたからです。映画は編集やカット割で誤魔化せる部分もありますが、お芝居は生物で舞台上にいる限り常に見られる状況にあります。そのお芝居に特有の状況下でも、映画のときよりかなり演技が良くなっていました。映画のときは黒木華やムロツヨシといった強力なワキがいましたが、今回は平均年齢25歳にもいかないメンバーでこれだけの締りのある舞台を作り上げたことに驚きです。

演技力は人それぞれ好みや評価が別れる部分ではありますが、台詞の読み方や表情の作り方、身体の動かし方、他の役者の言動への反応の仕方といった評価基準は割と万人に共有されるかなあと思うので、今回はちょっと言及してみます。
ももクロの5人の中では、特に玉井詩織の芝居が非常に気に入りました。最後の独白が続くシーンがあれだけ印象に残る場面になったのは彼女の演技によるものが大きいと断言できます。声量・滑舌も申し分なく、独白の場面なので台詞が駆け足になりがちですが、間をしっかり取れていました。何とも形容しがたいところですが、感情が台詞に乗って伝わるようになったと思います。
5人の演技力が成長しているのを感じましたが、それを踏まえても未だ成長途上の部分が大きく残っています。特に、他の役者が話しているときの演技や反応にちょっと不自然なところがあったのは事実です。日常会話においても、相手との関係性や相手の性格によって、自分の返事の仕方や返事のタイミングは変わってくるでしょう。玉井詩織の独白をはじめ、他の役者と合わせる必要がない部分では非常に良かったのですが、相手との会話や台詞が無いときの振る舞いは難しいもので、彼女たちもこの点に関しては成長途中かなあと感じました。特に、会話部分ではテンポを乱してしまうことが多々ありました。
そこを補っていたのは青年団をはじめとする脇役の面々でした。全体で見れば登場時間が短くても、役者が多く出るという自然な流れを作るのが難しいシチュエーションで、5人をしっかりサポートしていました。繰り返しになりますが、特に舞台で難しいのは、相手の台詞や行動に合わせて対応するところで、反応が早すぎても遅すぎても観ていて違和感を覚えてしまうものです。そんな中、舞台慣れしていないももクロの5人がちょっと間を崩す場面があっても、脇の7人がテンポや間を上手く調整し、舞台の先輩としてフォローしていました。たとえば千秋楽でも、最初の場面で百田夏菜子が「信じてついてきて下さい」と、それを言った後の佐々木彩夏の「はい」は両方とも間が悪かったですが、2年生か1年生の誰かがすぐに「はい」を上手く続けてテンポを元に戻していました。
中でも特に印象に残ったのは、高田役の伊藤沙莉と八木役の板倉花季、成田香穂役の井上みなみの3人です。後ろの2人は青年団かな。3人とも、相手の演技に合わせた反応が自然に表現されていたと思います。ももクロの5人が生き生きと演技できたのは彼女たちをはじめ、脇役の面々のおかげでしょう。

あとは、幾つかの雑感を。
まず、生とLVとを両方観た改めて感じたのは、映像とは演出家や監督の観せたいものを観ているんだなあということ。LVはカット割があるため映画に近くなる訳ですが、その結果演出家や監督に誘導されます。LVの方が泣けたというお客さんも結構多かったんじゃないでしょうか。
もし映画と違う点があるとするならば、各シーンにおいて、どのカメラの捉えるショットを使っているか、役者が知らない可能性があることです。映画とは異なり、毎回毎回、舞台上での立ち位置や向きに若干の違いが生まれるため、どのカメラの画を使うかは臨機応変に変更させないと行けないところも大きいはず。となると、各役者はLVで舞台上のどこを切り取られているのか完全にはわからない。その結果、映画以上に緊張感のある演技を観ることができたかもしれません。
LVに関連して、一つ気になったのはカット割の多さ。映画では、あんなにカット割せずに冗長とも言えるシーンが多い本広監督が、LVではアップを多用しカット割を増やしていました。台詞のある役者以外の反応を観たいシーンもあるので、ミディアムくらいのショットでもう少しカット割を減らした方が観やすかったかなと思います。

あとは細かいことですが、メイクのこと。生で観たときには濃いなとか感じず、高校生という役柄に合ったちょうどいいメイクだなあと違和感なく観ていたのですが、LVだと若干濃い笑 特に有安杏果。目のラメも観えていて不自然だった覚えがあります笑
宝塚が代表的ですが、舞台の場合、遠くの観客にも表情がわかりやすいよう、大げさにメイクをすることが多いです。ただ、LVだとアップが多くなるため、映画で使わられる程度のメイクで十分ということなのでしょう。舞台をLVで観て改めて気付かされた点でした。

最後に見せ転換について。個人的な印象としては数年前から採用する部隊が特に多くなっている気がしていますが、やるならばもっと洗練させた方が良かったと思います。暗転して演出部の人にやらせてもいい転換を敢えて役者がやるということは、観ている方はそれなりに見え方に期待をします。キューブを持ち上げる動きや下ろす動きを揃えたり、歩調を揃えたりすることで、転換が締まり、お客さんの集中力を途切らせない演出になったかなあという感じます。

あと映画に引き続き、脚本上のストーリー展開が飛び飛びなのは気になりました。たとえば、有安杏果演じる中西さんの心情の変化は、「試験前最後の稽古→カラオケボックス→エンディング」とどのように展開していたのか、台詞を言えないほどの蟠りは彼女の中でどのように昇華されたのか、ちょっと表現が不足しているように感じました。
ただ、この脚本の説明不足な点は映画でも共通であり、平田オリザの劇作家としてのポリシーも関連しているのかと思うので、ちょっと彼の本を読んでから、もう一度考えてみてもいいかな。

と、以上のように、つらつら書いていきましたが、「幕が上がる」は映画よりも舞台版の方が圧倒的に良い作品でした。1年間の撮影や稽古を通じて、映画の時点では成長が不十分だったのが舞台版の稽古で身についてきたのでしょうか。先日の「日経エンタテインメント!」で、アイドルが舞台をやるのは演技力が(比較的短期間で)向上すると期待されるからだ、という記事がありましたが、まさにその通りでした。ももクロの五人の中なら、玉井詩織や有安杏果の二人は今回の演技力に磨きをかけることができれば、映画でも舞台でも活躍の場が開けると思います。また、脇役ならば伊藤沙莉や板倉花季も今回の舞台でかなり株を上げたはず。

それにしても27公演をやりきったのは凄いものです。いろんなメディアで裏方を経験して振り返ると、舞台は他のメディアと比べて役者の消耗度が圧倒的に高いと感じます。マチネ(昼公演)とソワレ(夜公演)の間に昼寝する役者さんもいたりするくらい。ももクロは公演期間中にライブも挟んでいたし、主演だから登場時間も長いしで、本当に彼女たちの体力の無尽蔵さを感じました笑


最後に、この「幕が上がる」プロジェクトが成功だったかどうかは、今後の高校演劇や中小規模の演劇への注目がどの程度集まるかにかかっているでしょう。ももクロのファンにとっては、「幕が上がる」プロジェクトは単にももクロの成長過程の一部という認識かもしれませんが、演劇関係者としては小屋(劇場)に少しでも足を運んでもらいたい、という思いの詰まったプロジェクトでした。文藝春秋の別冊で平田オリザ特集が組まれていましたが、「幕が上がる」を「当てたい」と思って本広克行に映画化を依頼したというエピソードが載っていました。平田オリザは演劇を一般市民にも広く楽しんでもらえるよう、劇場に来てもらえるよう活動を続けていることで有名ですが、その彼にとって「幕が上がる」プロジェクトも演劇の良さを広める活動の一環だったのでしょう。このプロジェクトが演劇ファンの裾野を広げる役割を果たせたのか。もし「幕が上がる」を機に観劇へのハードルが一気に下がったとしたら、このプロジェクトは、ももクロの一作品という枠を超えて、大成功と言えるものになるでしょうし、(元)舞台関係者としてはそうなるよう願っています。

追記1(2015年6月1日)
大したことではなくて申し訳ないのですが、Twitter見てると、舞台に出演したいた女優さん方の知名度がモモノフさんの中でうなぎ登りですね。ももクロ関係ないツイートでも、明らかにリツイートとお気に入りの数が増加しています。特に伊藤沙莉や芳根京子辺り。「幕が上がる」の脇を固めていたのは、この年代の中では実力派と目される女優さんばかりでしたので、このようにして知名度が上がっていくのは嬉しい事ですね。是非モモノフさんにはもっといろんな舞台を見に行って欲しいです。

2015年5月2日土曜日

映画「幕が上がる」に関する若干の考察

(更新1: 7月18日画像を追加。)

またもや、ももクロネタかつ長文である。本体部分の推敲後に冒頭の言葉を書いていて、自分でドン引き笑 8000字前後あるみたいだ。これを最後まで呼んで下さる方がいたらびっくりである。この情熱を学部時代の映画研究に向けられたら、どんなに良い論文が書けたことか。。笑


先月、「幕が上がる」及び「幕が上がる その前に」をそれぞれ2回ずつ見に行ったので感想を書いていこうと思う。ストーリーに着目した感想も有意義だが、せっかく映画というメディアを使用している以上、映画だからこそ可能となる表現、個々のショットや構図に焦点を当てて分析していきたい(ただ、完全に映画分析として失格なのが、セグメントを書けないこと。前半部分がアウトでした。DVDで確認します。)。
まず確認したいのは、モノローグが随所に登場することからも自明なように、物語は、さおりの一人称の語りで一貫として語られること。途中で、中西さんとゆっこが二人で作業するシーンがあり、さおりはその場にいないが、二人を呼びに来た後輩が「『中西さんとゆっこさんはここにいると思うから』とさおりさんが言っていた」と語るように、中西さんとゆっこがその場にいることはさおりにとって明らかなことであり、さおりの一人称の語りは崩れていない。

以下、主に三つのモチーフに言及した後、いくつか疑問点を指摘したい。

第一に、注目すべきは人の向き。具体的には、演劇部員が並んで同じ方向を向くこと。この演出に特別な重きが置かれていると思われる。並んで同じ方向を向くという行為は、登場人物の心理的距離の近さや目標への一体感と連動している。では、登場人物ごとにこのモチーフについて検討していこう。
まずさおりと中西さん。二人が最初に出会うのは、さおりとがるるが中西さんに会いに行くシーン。自己紹介程度の会話をした後、チャイムが鳴ってさおりは中西さんのもとを走り去り、自分のクラスに戻る。続いて二人は図書館で偶然会う。その後、さおりと中西さんは図書館から途中まで一緒に帰るが、今度は電車通学の中西さんがさおりに背を向けて駅に去っていく(それも、自転車を引いているさおりが上がれないような階段を上がって駅に入る)。ここで注目すべきはフードコートでのシーン。前の二つと違って、さおりが中西さんを引き止めるショットでこのカットは終わり、別れるところは描かれていない。このシーンでは、中西さんがさおりに全国大会のボランティアの情報を教えてあげて、さおりが中西さんにボランティアに一緒に行こうと誘っており、ストーリー上でも明らかに二人の距離感が近づいている。二人が電車で東京に行くときは、若干間を空けているものの、ロングシートに並んで座っている。そして、ボランティア会場についてからは、二人で舞台を見ながら座席に紙を貼り付け、隣に座って観劇をする(=同じ方向を見ている)。他校の演技を見て、自分たちも良いお芝居を打ちたいという共通目標に感化された二人を表象するシーンである。
さおりが中西さんを引き止めた後、中西さんが去るシーンは描かれない
こうした心理的距離の接近を踏まえて、さおりと中西さんが感情をぶつけ合う夜の駅のシーンへと至る。お互いに本音を吐露した後、さおりと中西さんは並んで夜空を見上げる。二人が同じ方向を向くということだけでなく、星空を見上げるという重要なモチーフ(詳しくは後述)も取り入れられており、このシーンが映像的にもストーリー的にも観客に大きなインパクトを残すものであることを感じさせる。
同様の関係性は、ゆっこと中西さんとの間にも見出すことができる。物語前半では、二人が同じショットで捉えられることはない。初めて同じショットに捉えられるのは、合宿所に着いてから。たとえば、二人並んで休憩するシーンである。但し、ここでも並んでいるのは一瞬で、すぐに中西さんはゆっこに背を向けて後輩とセリフ合わせを始めしまう。二人の距離が近づいてはいるものの、まだ十分に打ち解けていないことがストーリーとパラレルに表現されている。二人の心理的なわだかまりが解消されるのは、やはり同じ方向を向いて並ぶことで示されている。中西さんがゆっこを誘って、屋上で箱に色を塗るシーンである。(お互いに相手の担当色を塗っているという「ももクロ」的演出を抜きにしても)同じ方向を向いて並んで作業することで、二人の間の心理的距離が解消されたことを視聴者は感じ取ることができるのである。
ちなみに、さおりとゆっこは元々が仲がいいから、どちらかが背を向けて去っていくという演出はほとんど登場せず、合宿中に同じベットで寝るシーンのように、二人が並ぶシーンがほとんどである(例外は、さおりが中西さんに会いに行ったとき、ゆっこが嫉妬するところで、さおりに背を向けて教室に帰っていく)。
吉岡先生との距離感という点に注目しても興味深い形式が浮かんでくる。さおりの吉岡先生に対する感情は、さおりの吉岡先生と相対する際の接し方に表れる。さおりが吉岡先生に惚れ込み、顧問になってほしいと頼むシーン。必死に頼み込むさおりに対して、吉岡先生が押されている状況だが、二人の運動は一貫して横並びの状態での並行移動である。対して、肖像画の公演が終わった後、吉岡先生が急に「行こう全国」と言い出しさおりが戸惑うシーンでは、二人はテーブルを挟んで向かい合うことになる。ここでの、さおりから先生への感情が、顧問を頼む時のような強いポジティブなものでは必ずしもないことを示唆する。

吉岡先生に顧問就任を頼むときは隣同士に並ぶ

ちなみに、これはさおり達ももクロ主演の映画のため、吉岡先生の感情が位置関係に反映されないのは当然である。冒頭に述べたようにさおりの語り・視点を中心に、ももクロのメンバーを主役としてストーリーが展開されるため、位置関係に反映されるのは彼女たちの心情である。吉岡先生からさおり達への感情は、顧問を頼まれた時よりも「行こう全国」といった時のほうが明らかに強いはずだが、吉岡先生の感情は、さおりと吉岡先生との位置関係には反映されないのである。
ラスト付近では県大会のシーンでも、仕込みの開始前、舞台袖に演劇部員は全員一列に並び、舞台を凝視し一礼をする。(記憶に間違いがなければ)演劇部員全員が一列になるシーンはここだけのはず。つまり、県大会の舞台において全員の心理的距離の近さ、目標への一体感を表象している。
最後に考えたいのが、演出家としてのさおりと吉岡先生とのオーバーラップ。正直なところ台詞だと追っかけていると伝わってこないのだが、「並んで同じ方向を見る」というモチーフと合わせて考えると、オーバーラップする部分が見えてくる。
演劇部員にとって憧れの吉岡先生は、常に演劇部員に対峙し向き合う存在である。吉岡先生が演劇部員と並んで同じ方向を見るのは、新宿のど真ん中で星を見るシーンだけであるが、吉岡先生と演劇部員とが演出・指導する側とされる側であるから当然である。しかし、物語途中から、吉岡先生は少しづつ演劇部員の前に登場しなくなる。そこで吉岡先生の代わりとなって演劇部員を演出・指導する立場となるのがさおりである。すると、ストーリー上でも映像上でも、吉岡先生の立ち位置を彼女が補完するようになる。物語の前半では、さおりが単独で他の演劇部員全員と向かい合うというシーンは出てこない。部長就任を後輩に報告するシーンでも隣にゆっことがるるがいる。しかし、吉岡先生の存在が薄くなればなるほど、さおりが演出兼舞台監督として独り立ちを強めれば強めるほど、さおりと演劇部員とが向かい合うシーンが増えてくる。ブロック大会では、客席の吉岡先生が思案するミディアムクローズアップが使われており、後から振り返れば吉岡先生の演劇部からの距離が遠ざかっていることを示唆されているが、同じブロック大会で、さおりが人差し指を高々と上げ、他の演劇部員全員はさおりの方を向いて同じ動作を行うというパフォーマンスを初めて見ることができる。県大会でも同様の合図は登場する。


さおりが演劇部全員と向き合う

さらに、さおりにとってのカタルシスの解放を感じられる「行こうよ全国」と演劇部員に語りかけるシーン。このシーンでも、吉岡先生から受け継いだ「行こうよ全国」というフレーズだけでなく、さおりが演劇部員全員を相手に向かい合うという位置関係、行為自体に意味を見いだせる。つまり、吉岡先生が演劇部から完全に消滅したことで、さおりが吉岡先生の務めていた、指導し演出するという特別なポジションを引き継ぐことができたのである(「吉岡先生→演劇部員」から「さおり→演劇部員」という関係へ)。ここに、さおりと吉岡先生とのオーバーラップを、彼女たちの演劇部員との位置関係から見出すことができる。

吉岡先生がいなくなった後、さおりが部員に「行こう全国」と呼びかける

以上、検討したように、「並び、同じ方向を見る」というモチーフの繰り返しは、部員の個人的関係や演劇部総体としての心理的距離や目標が徐々に収斂していくことを表現する上で一定の機能を果たしていると思われる。
「並んで同じ方向を見る」というモチーフが登場する他の代表的なシーンは、県大会前日の最後の練習にも見られるが、後述する「星を見る」というモチーフと同時に用いられているため、そちらで論述する。

続いて二つ目に検討したいのは、「星を見る」というモチーフである。このシーンは星空を見る登場人物の姿をとらえ、星空を映し出すという共通した手法を用いている。
劇中でさおりが言及する通り、この映画における「星」を演劇部員たちと重ね合わせるとするならば、その意図は明確である。演劇部員たちの個々の独立した状態や寂しさと、それでもどこかで繋がっているという絆、また、無限の旅を続ける星のように無限の可能性を秘めた彼女たちの可能性、こういったものを強調するモチーフとして星空の演出が導入されている。
最初に登場するのは、前述したさおりと中西さんとの駅での邂逅のシーンである。前段落で見たように、心理的距離が最接近したと思われる状態で二人が並んで夜空を眺める。中西さんの孤独の吐露、それを受けたさおりの「でも、ここにいるのは二人だよ」というセリフ。これは彼女たちの孤独と孤独の中に見出す絆を表す発話である。この会話を受けて、カメラはどう動くか。二人の引きを撮影した後、再度二人のミディアムショット、クローズアップを捉えて、観客の視点を一気に星空へと移していく。観客が、さおり・中西さんと星空とを結びつけられるように意図的なオーバーラップが示される。
続いて、登場するのは県大会前、最後の稽古の後である。明美ちゃんと3年生が5人で窓辺に並ぶシーンである。ここでは5人が並んで同じ方向を見つめるという第一に指摘したモチーフが登場しており、そこに星空を眺めるという第二のモチーフが加わっている点で、さおりと中西さんのシーンとパラレルな関係にある。ここは、主要登場人物とされる5人が、県大会を前にして各々大きなわだかまりもなく、ある種カタルシスが解放されたような状態である。ここでは各々の孤独よりも絆が強調されているが、星と5人とが連想されるような演出となっているのは明白である。無限に広がる星空とのオーバーラップは、彼女たちもどこまでも行ける存在であることを感じさせるもので、翌日に控えた大会に成功し、全国大会への切符を獲得したことを暗示しているかのようである。

ももクロの5人が並んで星を眺める

星空を眺めるシーンは実はもう一つ登場する。それは新宿のど真ん中で吉岡先生に連れられてお気に入りのスポットに行った場面である。このシーンも行為としては同じモチーフなのだが、解釈が難しく、一旦保留としておきたい。

東京で部員全員が並んで星を眺める

星とそこから連想される絆や無限の広がりといったモチーフは『銀河鉄道の夜』においても重要な要素となっているため、この点についてはDVDを踏まえてより深い議論をしたいと考えている。

最後に取り上げるのは、移動の方向に関して。モチーフと呼べるほどのものではないが、繰り返しが見られるため一応書き残しておく。
物語の中で登場人物の動きはどのように規定されているか。彼女たちは物語の中で一貫して画面の左から右へ動いていく。さおり・ゆっこ・がるるが自転車に乗るシーンは冒頭の野焼きのシーンも途中の疾走するシーンも左方向から右方向へ、さおりと中西さんがボランティアとして東京に行く際の電車も左から右、合宿に出発するバスも左から右方向へ動き出し、県大会で仕込みを開始する際も左から右へと歩む。
そして、最後のシーン。それまでカメラは客席側(面)からしか捉えていなかったものの、ここで奥からに視点を転換する。すると何が起きるか。舞台の登場人物で、上手から入ってくるゆっこやがるるが左方向から画面に登場するのである。
左方向から右方向へ、というような運動の繰り返しは物語に統一感を与える。このモチーフに運動の統一性以外の意味付けを与えたかったが、これはDVDが出てからの宿題かな。

以上、「人の向き」「星を眺める」「移動の方向」という三つのモチーフに着目してきたが、これらとは別に、シーンとしても気になった点が幾つか指摘しておきたい。まずラスト間際の部分。県大会の仕込みのショットと吉岡先生の稽古場でのショットが共通点を見せる。両者ともに映画中で唯一のスローモーションが使われており、一つ一つの細やかな動きにまで観客の注意が向くように仕掛けられている。
もう一つ気になったのが、「(悪い)大人」というモチーフ。「悪い大人」という言葉は、「春の一大事2014」で百田夏菜子がこれまで自分たちに様々な挑戦をさせてきた周囲のスタッフらを指して用いたフレーズである。本作品における大人はもちろん吉岡先生と溝口先生である。溝口先生は必ずしも協力的な顧問ではないし、吉岡先生は自ら部員を焚き付けて挑戦させた挙句、県大会という壁を前にして学校を離れてしまう。吉岡先生は正に「悪い大人」である。ものすごい単純に分けるならば、物語の構造としては、「悪い大人」に振り回されつつある前半部分から、自発的に全国大会への出場を決意する後半部分へという流れがある。「悪い大人」たちから徐々に巣立っていくのである。
「悪い大人」からの独立という点に関連して気になったのは、誰が画面を支配するのかということである。たとえば冒頭部分で引退する3年生を慰める場面ではムロツヨシを抜くショットが多いが、後半部分で学校を去った吉岡先生の手紙を読む場面では演劇部員にフォーカスが当たる。さらに、吉岡先生が学校にいる間は吉岡先生の画面上での存在感は絶大だが、彼女も物語から退場してしまう。ムロツヨシや吉岡先生が画面からフェードアウトしていくから、画面の中心を担うのは演劇部員たちになるのである。これは「悪い大人」から彼女たちが自発的に行動するようになったこととパラレルになっていると思われる。
以上二つの点については、DVDを見てさらに検討する必要がありそうだ。但し、思いつきなところもあるから、修正の余地もある可能性が笑

上記のように主要なシーン・モチーフに関する考察を進めてきたが、いくつか意図が不明な撮影・演出があったのも事実である。
たとえば、360度全方向からの撮影を試みた「肖像画」のシーン。360度の全方向からはこのシーンでしか使われていないが、この撮影法によって何を表現したかったのか。彼女たちの成長か、それとも彼女たちが感じる緊張感か、ストーリーを考慮しても、この全方向からの撮影にこだわる必然性が伝わってこなかった。

また、劇中で主観ショット(POV)が使われているシーンが2回ほどあったが、両者ともに効果が不明確であったし、一方に関しては使用法にも問題があったと思われる。最初にPOVが用いられた(少なくとも用いようとしたと解釈できる)のは、さおりと中西さんがボランティアとして全国大会で演劇を鑑賞するシーンである。ここでは、さおりと中西さんが見ている舞台上の仕込みやお芝居(POV)と、それを見る彼女たちを交互に映し、彼女たちの笑い顔や感動した表情から私達は彼女たちの視点からの臨場感と共感を味わうことができる。しかし、このPOV(さおりと中西さんが観ているもの)の視点が、さおりや中西さんが見ている位置からは明らかにズレており、空間的な違和感を感じることになっている(コンティニュイティが失われている、というかな)。コンティニュイティの喪失は、演出上の効果を減退させるだけでなく、観客側の集中力を切らしてしまう。仕込みやお芝居のシーンは映画のために撮影したのではなく他の映像媒体から援用した可能性があるため、位置的なズレが生じるのはしょうがないのかもしれないが、明らかにPOVと思われる技法を用いているにも関わらず、コンティニュイティが失われているのは演出としては不適切だと言える。
次にPOVが用いられたのは、さおりのお母さんが、自宅で作業するさおりの手元を覗きこむシーンである。POVには、登場人物との共感だけでなく、登場人物の視野に限定することで登場人物と認識する物事のレベルを同一にするという機能もある。後者の用途はヒッチコックが好んだ手法で、サスペンスによく用いられる。当然ながら「幕が上がる」のこのパートでサスペンスは不要である。結局、このシーンでのPOVからは意図が読み取れなかった。

また、他のブログでも指摘されているが、物語前半部のモノローグは減らすことができたと思う。特に、吉岡先生が「肖像画」を演じているシーンなど、さおりの表情や演出によって十分に補完できたはずだ。映画中ではほとんど使われていないが、ミディアムショットやクローズアップを駆使して編集することで、登場人物の心境を表すのは割とオーソドックスな手法である。映画で可能な演出を排除してモノローグを多用したのは、映画の演出の可能性、百田夏菜子の女優としての可能性を狭めたと感じてしまう(もちろんモノローグが物語後半にかけて減っていくことで、彼女の表現力が高まったことを表しているという議論があることは踏まえた上で)。

さらに、「その前に」によると、長回しの撮影を何度もしたようだが、本編にはほとんど使われていない。練習という意味もあっただろうし、彼女たちの演技が耐えられるものではなかったのかもしれないが、長回しを試したシーンも微妙だった。端的に言えば、リアリティのないシーンで長回しを多用していたと思われる。たとえば、さおりとがるるが中西さんに挨拶に行く場面。さおりがチャイムが鳴って自分の教室に戻るため、そこでカットが終わるが、実際には長回しもしていたようだ。しかし、細かいことだが、チャイムが鳴った後も、あんなに長く会話が続くことを想定するのも難しい。他にも、最後の稽古の日にさおりが部員全員に語りかける場面がある。ここでも長回しをしているが、「その前に」を見る限り、無理やり言葉をひねり出して間延びした雰囲気となっていた。部長があんな風に長々と同じような言葉を続けることがあるのか。
逆に、合宿中の稽古場を長回しで撮ったのは良かったと思う。あれはリアリティのある長回しだった。

最後に、カメラのフレーミングについて。本広監督の好みなのか、本当にトラッキング(レールを使ってカメラを動かす手法)を用いた撮影だらけ。普通、リフレーミングには何らかの意図(登場人物が動いているのを追う、観客のフォーカスを微妙に変えたい)が必要であるが、本広監督は平気でカメラを動かし続ける。これでは、何かに注目したくとも集中力が途切れるし、ゆったりとしたトラッキングと長めのカットによって間延びした印象を与える。

脚本についても、映画の2時間という時間的制約があったとしても消化不良な点が残った。
たとえば、明美ちゃんのスランプ。県大会前最後の稽古を見る限り、ブロック大会でのスランプから解放されている。しかし、映画を見ているなかで、このスランプからどのように脱却したのか、この点が宙吊りのまま終わってしまった。唯一示唆されているシーンとして、さおりと明美ちゃんが二人で稽古するシーンがあるが、このシーンで明美ちゃんのスランプが解消されると理解するのは困難だったと思う。

以上、繰り返されるモチーフに着目した考察と若干の疑問点を指摘してみた。
ここまで書いてみて気づいたけど、さおり以外の部員だと中西さんが明らかに物語の重要な部分を占めていて、役として「恵まれている」と思う。映像上、重要なシーンの多くは中西さんが関わっている、それもメインで。役を考えたら当然なのだが、がるるとかと比べたら明らかに多い。ちなみに、有安杏果ちゃんの演技は5人の中でもいい方だったと思う。個人的には好みの演技だった。ただ、滑舌が悪いから舞台は厳しそうだ。バラエティの対応力も低いし、映画やドラマへ活路を見いだせると良さそう。あと、玉井詩織ちゃんの場合、表情のアップが使えない舞台では、恵まれた身体があるだけで演技の幅が広がり、アドバンテージになる。彼女はモデルという道もあるが、女優を目指すなら舞台は一つの選択肢としていいと思われる。

本広監督の演出の妥当性や優劣を検討するには、さらにDVDを見ていく必要があるだろう。ただ、2回見た後の感想としては、演出がちょっとくどいのとカメラのトラッキングが気になったけど、他の本広作品の評価ほどの悪さはなかったと思う。ももクロの皆さんのお芝居はどう評価したらいいんだろう。初めての割にはよかった、とも言えるし、これから女優としてもやっていきたいなら、
もうちょっと、とも言える感じ。
他のブログでも指摘されていたが、「幕が上がる」をアイドル映画として見て欲しくなかったのなら、ももクロを感じる要素を物語に組み込むのはご法度だったはずだ。映画中にももクロを連想させるモチーフや小道具は多数登場したが、こうしたモチーフや小道具の存在はさおりら演劇部員とももクロとのオーバーラップを促進する装置となってしまう。アイドルの映画外でのキャラクターを連想させ、そのキャラクターを以て映画の演出に活用するなら、それはもうアイドル映画である。本広監督の趣味なのかもしれないが、この点については言行不一致と言わざるをえない。ももクロをあまり知らない人なら大丈夫、という声があるかもしれないが、松崎しげるが出てきたり、劇中歌でももクロの曲が多用されたり(それも歌詞がストーリーとほとんど関係ない)、余韻あるラストなのにももクロのダンスを見せられたり、と「アイドル映画として見て下さい」と言わんばかりの演出である。

そんなこんなで、やっぱり、お芝居の方がどうなるかが気になる。友人の頑張りのお陰で見に行けるのですが、お芝居出身者としてはこちらのほうが気になるところ。演劇は生身で出てこなくてはいけないので、芝居の上手い下手がもろに出る。また、映像作品とは違って小細工がきかないから、演出の腕も求められる。
ももクロ的演出が映画ならできないとはず、という期待を舞台の方には持っていたのだが、本広監督のツイート見ていたらサイリウムなんたら、と書いてあって失望。めちゃ失望。結局彼女たちを女優としては勝負させないんだなあというのが見え隠れ。本当に彼女たちを女優として扱い、アイドルの舞台ではないものとして評価して欲しいなら、カーテンコールだとしてもアイドル的、ももクロ的要素は一切排除するべきだったのではないか。
偉そうに語っていますが笑、あまり他の方の感想は読まずに、2週間後楽しみにしています。

そういえば、Twitterで出演者みんな覚えたてみたいで、マチソワマチソワ言っていて、ちょっと可愛い笑(マチソワ、とは、マチネとソワレを合わせた演劇用語)
それにしても3週間もの公演なんて大変だよなあ。普通の舞台の稽古期間の長さと言ってもいいと思う。そんなに長い舞台、スタッフでもやりたくない笑。

*写真を幾つかニュースサイト等から拝借致しました。公的な文章ではないので、出展は書いておりませんが、どうぞご容赦下さい。

2015年4月13日月曜日

まさかのももクロ

また、久々の更新。
それも国際関係論とは無関係な内容笑

この前の日曜日、ももいろクローバーZ(以下、ももクロ)のライブを観に女川へ行ってきた。そもそもアーティストの単独ライブに行くのが初めてだし、自分がアイドルのライブを観に行こうと思う日が来るなんて考えたこともなかった。それくらい自分の中で事件だったので、ライブ参戦に至るまでの経緯とその感想をここに書き残しておこうと思う。

事の発端は今月の初め、高校の友人が家に泊まりに来たこと。その友人は家で一緒にDVDを観ようと語り、近所のレンタルDVDを店に行った。そこで彼が手に取ったのがももクロのライブDVD、『サマーダイブ2011 極楽門からこんにちは』だった。「とりあえず観てみろよ」というので、何となく一緒に観ていた。ただ、その日は本当に何となく流し見するだけで、何も頭に入ってこなかった。
事態が一変したのは、彼が帰った次の日から。普段から家にいるとき何も音が無いのが嫌なので、テレビをつけるか音楽をかけるかを習慣にしている。今日は何を掛けようかと思案すると、『極楽門』のDVDが目に飛び込んできた。せっかく一週間レンタルしているし聞いてみっかと思い、PS2にディスクをぶっこみ家事を始めた。
そして、まあ何が起きたかというと、「ハマった」(何に「ハマった」かは長くなりそうなので、別に改めて書きます)。結局、その日から返却するまで家にいるときはずっと流しっぱなし。朝起きたら『極楽門』をつけて、夜帰ってきたら寝るまでまた鑑賞するという末恐ろしい一週間が続いた。

ちょうど『極楽門』を返却した頃だと思う。『極楽門』を借りて家に泊まりに来た友人が女川のライブのチケットが余ってるから一緒に行かないかと連絡してきた。ライブ経験はあってもアイドルのコンサートなど行ったことなかったし、正直なところ雰囲気が異様に思える部分があって避けていたが、ももクロに関しては直接観てみたいなあという思いが芽生えていた。チケット代も2500円でキャパは5000人ほど。今やドームやアリーナが会場のライブばかりだから、この値段で1000人単位の生ライブは珍しいかもしれない。ただ問題は場所。女川は相当遠い…。丸一日は潰れるし、次の日も午前中は使えないかもしれない。。。結局2日ほど悩んだ末、好奇心が勝り参戦決定。

ちなみに、ももクロの存在自体は、何となくだが結構前から知っていた。
まず、大学のサークルの先輩が熱烈なファンで、その影響で2010年のメジャーデビューシングル『行くぜっ!怪盗少女』はよく聞いていた。その2年後くらいにやはりサークルの行事で、後輩が「ココ☆ナツ」を踊っているのを見た。
音楽に関しては雑食で、耳に心地よいメロディなら選り好みせず何でも聞く質なので、「行くぜっ!怪盗少女」とそのカップリング「走れ!」は割とヘビロテしていた(ヒャダインの曲が何となく好きだったのも影響したのかな)。ただ、「ココ☆ナツ」に関しては一度見たきりだったし、「イロモノ感」が前面に出ている気がして、ちょっと困惑したのを覚えている。笑
紅白に出ていたのは知っていたし、色分けされているくらいの認識はあったが、メンバーは百田夏菜子しか分からず、「Z」がついたことも知らなかった笑。結論から言えば、先月の初頭まで僕のももクロに関する知識は一般人レベルかそれ以下だったと思う(国立ライブをやったことすら知らなかったから、一般人の中でも相当下の部類だったかもしれない笑)。そんな状況から、まさかの『極楽門』視聴後2週間でのライブ参戦である。

で、早速ライブの感想を書いていこう。ちなみに、僕は元々ヲタ芸とかは苦手だというバイアスが入っていることを承知で読んでください。

ネガティブな感想。
1.歌唱中のコールで歌が聞こえない
2.ダンスがこなしてる感のあるものだった(『極楽門』と比べると)
3.コールをしないお客さん、衣装が普通のお客さんはちょっと参加しづらい印象
4.「ツヨクツヨク」のサビで、お客さんがタオルを振ると、ただでさえ見づらいステージがさらに見えなくなる

先にネガティブな感想から行きました。
1と4は会場の都合もあったから、しょうがないかな。4に関しても、スクリーンがある会場ならそんなに見にくいとは感じないのでしょう。音響に関しては、そもそも屋外だし、スピーカーはステージの両脇に申し訳ない程度に置いてあるだけだったし、初めの方でマイクがハウっていたから途中からマイクの音量を絞っていたのかも。
ただ、もし歌が十分に聞こえるとしても歌っている最中のコールはちょっと苦手。DVDだとマイクから直接音を拾ってくれるから、歌がよく聞こえるけど、ライブだと歌が聞こえてもコールもそれ以上に耳に入ってくる。歌をもうちょっとちゃんと聞きたい側からすると、コールはフレーズとフレーズの間とか間奏の時にして欲しいなと思いました(これが普段曲を聞くようなアイドルでも、ライブには行ってなかった理由。やっぱり想像通りでした笑)。ただ、コールを入れたいファンがほとんどだろうから、普通のライブとは別に、コールを禁止して歌を聞かせるようなライブもやって欲しいかも。(そういえば、ももクロが歌いだしを若干ミスった曲があった。会場の音響の問題もあるが、もしかしたら、コールが大きすぎて音源が聞こえていなかったのではという気がした。)

ジャニーズのライブによく友人に聞くと、コール&レスポンスのような形はあっても、歌にかぶるようなコールをしたことはないみたい。やっぱり、ももクロのコールはアイドル特有なものの範疇にあるし、こうした状況が続けば、より広く「一般受け」する形で受け入れられるのは難しいかもしれない。あのコールに慣れることができれば、多くのアイドルのライブは対応可能な気がする。

次に3に関しても、別にそのように感じただけってだけだから、それ以上でもそれ以下でもないかな。めっちゃ服を決めてる人から見たら、普段着で来てる僕なんかは全然気合入ってない!ってことになるのかもしれないし。ただ、上にも書いたけど、アイドルのライブ!って感じが全開だから、よりライトなファンを取り込むのは難しそう。

ということで、実は一番残念だったのが2。『極楽門』のライブは、彼女たちの荒い息遣いや熱気が画面を通して伝わるようなものだった。対して女川のライブでは、ステージと観ていた位置がちょっと離れていたのもあるかもしれないけど、ちょっとダンスから「こなしてる」印象を抱いてしまった。別に下手とかではない。ただ、ちょっと省エネというか、一曲一曲からその瞬間のベストを見せるような気迫を感じることができなかった。何を偉そうに、と思うかもしれないが、この全身からにじみ出るダンスの迫力が彼女たちの魅力だと思っていたので、期待値も高かったのだ。
もちろん、『極楽門』の時とは違って口パクをしていない(少なくとも相当少ない)はずだから、激しいダンスはできないのは当然だ。かつてダンスをしていたが、あの激しいダンスをしながら安定した歌声を披露するのが難しいのは十二分に理解している。
そもそも、ももクロのダンスは上手とはいえない(当然歌も上手い部類には入らない)。ダンスならPerfumeの方が圧倒的に完成度が高いし、歌を聞きたいなら他のアーティストのライブに行く。それでも、僕がももクロのライブを見まくっていたのは、その熱を感じ、彼女たちからエネルギーを受け取っていたからだ。生で見れば、もっと激しくほとばしるエネルギーを全身で感じることができるかもしれないと期待していたから、ちょっとだけ不満に思ってしまった(これについても、また別に書こうかな)。

じゃあ、ポジティブな感想。
1.生歌であることがわかった笑
2.ファンのももクロ愛が痛いほど伝わってきた
3.女川でライブをやることの意味をお客さんに痛感させる内容だった

1が確認できたのは大きかった。今まで、「口パク」してないというのがウリだと時々聞いていたが、DVDだと歌を後から被せているから実際のライブでの歌声はわからないし、実際のところ眉唾だと思っていた。ただ、実際に聞いてみてハウっていたり、声量や音程にブレがあったりで(コンサートの質としてどうなのかというツッコミは置いといて)、生歌にこだわっていることを確認して改めて驚きました。

2は省略。全力のコールとファッション。とにかく普段着で行ったら浮きました笑

3は非常に重要だと感じたところ。アンコールの最後に青春賦を女川の小学生・中学生と合唱していました。このとき合唱した生徒の中には以前にもももクロと関わったことがある子がいて、「彼氏出来たー?」とか絡んでいたのだが、これは継続的な被災地支援を示したもので印象が良かった。ただライブをするだけではなく、以前から継続している支援をアピールする演出を最後に持ってきたのは女川に対するリスペクトにもなり、ももクロの(運営の)こういった方針は好感を持てました。
また、モモノフの方々も、青春賦の間は静かに聞いていたので、最後の最後に凄いしっとりと曲を楽しむことが出来ました。笑

結果的に、「終わりよければすべてよし」でライブ全体では凄い楽しいものになりました。

ただ、当面はライブには行かず、DVDで楽しめればいいかなという感じです。
やはり周りでずっとコールされているのはちょっと。。って感じだし、歌の最中(間奏とかじゃなくて歌っている最中)にコールしている人が隣にいたりすると歌聞こえないし。
でも、彼女たちのエネルギー溢れるパフォーマンスは好きだし、これからも頑張って欲しいです。

2015年1月28日水曜日

国際政治についても書いてみる

(更新1:7月7日 何かの不都合で文章の順序が狂っていたので整序しました)

授業でMearsheimear&Walt(M&W)のIR理論に関する論文を読んだから、ついでにLakeのIR理論の論文も読んでみた。やっぱりというか、 残念ながら、M&Wは現在の潮流というか水準から考えると、時代遅れな偉人になってしまった感じが否定できない。
M&Wは一貫して「IRの理論にもっと注目しろ」と主張する。現在のIRは陳腐な仮説検証を繰り返しているにすぎず、理論が疎かにされていると。社会科学の進歩を信じる身としては、理論が重要だという主張それ自体は完全に同意である。しかし、陳腐な仮説検証が繰り返されているだけで理論が発展していないという彼らの現状認識は正しいとは思えない。
さらに、Mearsheimerの「攻撃的リアリズム」という「理論」は論理的一貫性がないことが指摘されている。戦争原因論としての「攻撃的リアリズム」も、実証分析が不十分であるため、論理的整合性のない宗教のような「イズム」の一つになってしまっているのである。


確かに定量分析の中には、「データを改善したら、過去の○○の分析とは逆の結果が見られたよ!」とか、「メソロドジーを開発したら、こんなことがわかったよ!」という実証がメインな研究もある(但し、実証分析の発展は理論の改善・構築に不可欠なのは言うまでもない)。しかし、理論的発展に貢献している研究も多々あるし、M&Wがこのような研究を見落としているとは思えない。すると、M&Wのいうところの「理論」が何を指しているのかが問題となる。彼らが考える「理論」とは何なのか。M&Wによると、それは「イズム」と名がつくもの(リアリズム、リベラリズム…)、又は抑止や観衆費用といった中規模なものである。W&Mを読む限りでは、よりミクロな理論は「理論」と呼べないようである。

ここでLakeの論文を見てみよう。Lakeは、「イズム」と名がつく「理論」は単なる前提を共有している学問的伝統に過ぎないと看過する。旧来のIRは、「イズム」間で各々の信じる前提の優位性を討論するだけで、そこには実証的立場からの主張がないため、神学論争的だったという彼の主張は多くのIR研究者にとっては耳が痛い話かもしれない。Lakeの言うとおり、「IRの基本構成ユニットは国際システムか、国家か、個人か」「アクターは力の拡大を求めるのか、協調を求めるのか、正義を求めるのか」といった議論が実証分析なしに行われるている状況は、まさに「イズム」という宗教どうしの神学論争であったので ある。そして、こうした状況は1980年代までのIRでは頻繁に見られる光景であった。

こうした状況下に登場したのが、SnidalでありFearonでありPowellあった。彼らはフォーマルモデルをIRに導入した研究者である。彼らの貢献の一つは、「イズム」間の対立が本質的には同一の事象の特殊例を巡る対立であることを指摘したことである。たとえば、国家が求めるのは相対利得か絶対利得かというのは、ネオリアリズムとネオリベラリズムとの間の対立で見られるが、相対利得と絶対利得とはより一般化された利得に関する理論の特殊例であることが PowellやSnidalにより明らかになった。つまり、ネオリアリズムとネオリベラリズムとの対立が「木を見て森を見ず」という状況に陥っていたのである。

もし「イズム」に上記のような論理的整合性の欠陥が無かったとしても、「イズム」は分析の前提を提供するに過ぎない。つまり、現実を検証する仮説を構築するには、「イズム」による前提を基によりミクロな理論が必要である。つまり、Lakeの議論に則れば、M&Wが語るところの「理論」は理論とは言い難い。

「理論」を巡るM&WとLakeの主張を比較すると、Lakeに軍配が上がると言わざるをえない。M&Wが想定する「理論」は、仮説を構築する際の前提を提供するものであり、伝統的に形成された前提を共有するパラダイムに過ぎないと言えるだろう。しかも、その前提自体が、あるパラダイムに特有というわけではなく(多分無意識的に)かぶっている部分があるため、論理的に曖昧となってしまっている。

長くなってしまったが、結論的にはM&Wの主張はIRの現状を反映している訳ではないということになるだろう。部分的には適当な指摘があるかもしれ ないが、大筋としては旧来の「イズム」=理論という「理論」認識に引きずられている結果、こうした論考が生まれたのだと考えられる。IR理論の精微化はもちろん必要だが、それはM&Wが主張するような「イズム」に拘るようなグランドセオリーを構築することではないだろう。より論理的一貫性を突き詰めるような形で行われ、そこにミクロな理論が含まれるのも当然だろう。

以上を鑑みると、日本のIR教育はやや時代についていけていない感もする。以前に千葉大奈先生もブログで指摘されていたが、こうしたアメリカのIR界隈の現状を反映した教育がされてもいいと思う。別に「イズム」を教育から排除しろというわけではないが、どう扱うかという点では再考が必要だろう。たとえば、ミアシャイマーの攻撃的リアリズムの論理的不備や、利得を巡るネオリアリズムとネオリベラリズムとの対立の不毛さは、経験主義的な実証やフォーマルモデルの活用によって指摘可能であり、十分に認知させることができるはずだ。あくまでも「イズム」というのは実証分析を行う際の枠組みとして用いいるものであり、理論そのものではない。実際に仮説検証するにあたっては、「イズム」が「理論」として直接的に検証されるわけではなく、よりミクロな理論が必要だと認識してもらうことが大事だろう。


注) 但し、もちろん例外もある。昨年のISAの最優秀書籍に選ばれたBraumoellerの研究はグランドセオリーの範疇に入るものだが、フォーマルモデル を活用して理論を作り、統計的実証を行っており、さらに事例研究による歴史的実証にも取り組んでいるため、まさに仮説検証に耐えうるグランドセオリーの提示に成功したといえ、ミアシャイマーら過去のグランドセオリーとは一線を画すものだと言えるだろう。

出典は、M&Wがこちら。
Mearsheimer, J. J., & Walt, S. M. (2013).“Leaving theory behind: Why simplistic hypothesis testing is bad for International Relations.” European Journal of International Relations, 19(3), 427-457.
(http://ejt.sagepub.com/content/19/3/427.short)
Lakeがこちら。
Lake, D. A. (2011). “Why “isms” Are Evil: Theory, Epistemology, and Academic Sects as Impediments to Understanding and Progress1.” International Studies Quarterly, 55(2), 465-480.
(http://onlinelibrary.wiley.com/doi/10.1111/j.1468-2478.2011.00661.x/abstract) 

Lakeの方は、2010年のISA総会でのスピーチを基に発展させたものだと思われる。時系列的にはLakeが先なのだが、M&Wは反論して自ら墓穴を掘った感がある。

ちなみに、ミアシャイマーの攻撃的リアリズムの論理的不備を指摘した論文のうち、日本語のものはこちら。
市原麻衣子(2004)「攻撃的リアリズムによる戦争発生の論理ー防御的リアリスムとの比較から」『国際政治』 136、128-144。

相対利得と絶対利得の議論は多数あるが、代表的なものを参考文献にあげておく。
Snidal, Duncan. (1991). “Relative gains and the pattern of international cooperation.” The American Political Science Review, 85(3),701-726.
Powell, Robert. (1991). “Absolute and relative gains in international relations theory.” The American Political Science Review, 85(4),1303-1320.

ちなみに旧来のリアリズムを論理的に完全に沈没させたのがこちらのFearonの有名な論文。
Fearon, James D. (1995). “Rationalist explanations for war.” International organization, 49(3), 379-414.
もっと、こういった研究が日本の国際関係論・国際政治の授業でもっと取り上げられるべきだろうが、教科書をざっと見たところ取り上げているものはあまりないみたいだ。


鈴木基史先生の『国際関係』(東京大学出版会)くらいか。もし、他にもご存知のかたいたら教えてください。