2015年5月25日月曜日

舞台「幕が上がる」を終えて

(追記1: 2015年6月1日)

夜遅くなってしまったけど、とりあえず未整理の状態でも今日中に書けるところまで書いとく方が良さそうだったので、書き残します。

ブルーシアター六本木で6月24日まで上演していた舞台「幕が上がる」についての感想です。映画の方は、「考察」としておきました。映画については過去にも分析して卒論も書いたことがあるので「考察」としましたが、演劇に関しては昔携わってはいたものの分析の対象としたことはないので「感想」としておきます(映画の「考察」についてはこちら)。

そもそもの発端は、「極楽門」を貸してくれた友人が、チケット取れたから観に行こうと誘ってくれたこと。かつてお芝居を作る仕事をしていた身としては是非とも行かねばということで、17日に観に行きました。あと、もっかい観に行きたいなあと思ったので、千秋楽のLVも今日参加してきました。
端的に言うと、贔屓目なしに見ても良い舞台だったと言えるのではないかと。ももクロの5人は映画の撮影から少しずつですが徐々に演技力がついてきたと思いますし、何よりも周りを固める1年生・2年生は素晴らしい脇役でした。実は映画版の考察を書いたときに演技力については言及しませんでしたが、それは映画の段階ではももクロの5人の演技力にまだ難があると感じたからです。映画は編集やカット割で誤魔化せる部分もありますが、お芝居は生物で舞台上にいる限り常に見られる状況にあります。そのお芝居に特有の状況下でも、映画のときよりかなり演技が良くなっていました。映画のときは黒木華やムロツヨシといった強力なワキがいましたが、今回は平均年齢25歳にもいかないメンバーでこれだけの締りのある舞台を作り上げたことに驚きです。

演技力は人それぞれ好みや評価が別れる部分ではありますが、台詞の読み方や表情の作り方、身体の動かし方、他の役者の言動への反応の仕方といった評価基準は割と万人に共有されるかなあと思うので、今回はちょっと言及してみます。
ももクロの5人の中では、特に玉井詩織の芝居が非常に気に入りました。最後の独白が続くシーンがあれだけ印象に残る場面になったのは彼女の演技によるものが大きいと断言できます。声量・滑舌も申し分なく、独白の場面なので台詞が駆け足になりがちですが、間をしっかり取れていました。何とも形容しがたいところですが、感情が台詞に乗って伝わるようになったと思います。
5人の演技力が成長しているのを感じましたが、それを踏まえても未だ成長途上の部分が大きく残っています。特に、他の役者が話しているときの演技や反応にちょっと不自然なところがあったのは事実です。日常会話においても、相手との関係性や相手の性格によって、自分の返事の仕方や返事のタイミングは変わってくるでしょう。玉井詩織の独白をはじめ、他の役者と合わせる必要がない部分では非常に良かったのですが、相手との会話や台詞が無いときの振る舞いは難しいもので、彼女たちもこの点に関しては成長途中かなあと感じました。特に、会話部分ではテンポを乱してしまうことが多々ありました。
そこを補っていたのは青年団をはじめとする脇役の面々でした。全体で見れば登場時間が短くても、役者が多く出るという自然な流れを作るのが難しいシチュエーションで、5人をしっかりサポートしていました。繰り返しになりますが、特に舞台で難しいのは、相手の台詞や行動に合わせて対応するところで、反応が早すぎても遅すぎても観ていて違和感を覚えてしまうものです。そんな中、舞台慣れしていないももクロの5人がちょっと間を崩す場面があっても、脇の7人がテンポや間を上手く調整し、舞台の先輩としてフォローしていました。たとえば千秋楽でも、最初の場面で百田夏菜子が「信じてついてきて下さい」と、それを言った後の佐々木彩夏の「はい」は両方とも間が悪かったですが、2年生か1年生の誰かがすぐに「はい」を上手く続けてテンポを元に戻していました。
中でも特に印象に残ったのは、高田役の伊藤沙莉と八木役の板倉花季、成田香穂役の井上みなみの3人です。後ろの2人は青年団かな。3人とも、相手の演技に合わせた反応が自然に表現されていたと思います。ももクロの5人が生き生きと演技できたのは彼女たちをはじめ、脇役の面々のおかげでしょう。

あとは、幾つかの雑感を。
まず、生とLVとを両方観た改めて感じたのは、映像とは演出家や監督の観せたいものを観ているんだなあということ。LVはカット割があるため映画に近くなる訳ですが、その結果演出家や監督に誘導されます。LVの方が泣けたというお客さんも結構多かったんじゃないでしょうか。
もし映画と違う点があるとするならば、各シーンにおいて、どのカメラの捉えるショットを使っているか、役者が知らない可能性があることです。映画とは異なり、毎回毎回、舞台上での立ち位置や向きに若干の違いが生まれるため、どのカメラの画を使うかは臨機応変に変更させないと行けないところも大きいはず。となると、各役者はLVで舞台上のどこを切り取られているのか完全にはわからない。その結果、映画以上に緊張感のある演技を観ることができたかもしれません。
LVに関連して、一つ気になったのはカット割の多さ。映画では、あんなにカット割せずに冗長とも言えるシーンが多い本広監督が、LVではアップを多用しカット割を増やしていました。台詞のある役者以外の反応を観たいシーンもあるので、ミディアムくらいのショットでもう少しカット割を減らした方が観やすかったかなと思います。

あとは細かいことですが、メイクのこと。生で観たときには濃いなとか感じず、高校生という役柄に合ったちょうどいいメイクだなあと違和感なく観ていたのですが、LVだと若干濃い笑 特に有安杏果。目のラメも観えていて不自然だった覚えがあります笑
宝塚が代表的ですが、舞台の場合、遠くの観客にも表情がわかりやすいよう、大げさにメイクをすることが多いです。ただ、LVだとアップが多くなるため、映画で使わられる程度のメイクで十分ということなのでしょう。舞台をLVで観て改めて気付かされた点でした。

最後に見せ転換について。個人的な印象としては数年前から採用する部隊が特に多くなっている気がしていますが、やるならばもっと洗練させた方が良かったと思います。暗転して演出部の人にやらせてもいい転換を敢えて役者がやるということは、観ている方はそれなりに見え方に期待をします。キューブを持ち上げる動きや下ろす動きを揃えたり、歩調を揃えたりすることで、転換が締まり、お客さんの集中力を途切らせない演出になったかなあという感じます。

あと映画に引き続き、脚本上のストーリー展開が飛び飛びなのは気になりました。たとえば、有安杏果演じる中西さんの心情の変化は、「試験前最後の稽古→カラオケボックス→エンディング」とどのように展開していたのか、台詞を言えないほどの蟠りは彼女の中でどのように昇華されたのか、ちょっと表現が不足しているように感じました。
ただ、この脚本の説明不足な点は映画でも共通であり、平田オリザの劇作家としてのポリシーも関連しているのかと思うので、ちょっと彼の本を読んでから、もう一度考えてみてもいいかな。

と、以上のように、つらつら書いていきましたが、「幕が上がる」は映画よりも舞台版の方が圧倒的に良い作品でした。1年間の撮影や稽古を通じて、映画の時点では成長が不十分だったのが舞台版の稽古で身についてきたのでしょうか。先日の「日経エンタテインメント!」で、アイドルが舞台をやるのは演技力が(比較的短期間で)向上すると期待されるからだ、という記事がありましたが、まさにその通りでした。ももクロの五人の中なら、玉井詩織や有安杏果の二人は今回の演技力に磨きをかけることができれば、映画でも舞台でも活躍の場が開けると思います。また、脇役ならば伊藤沙莉や板倉花季も今回の舞台でかなり株を上げたはず。

それにしても27公演をやりきったのは凄いものです。いろんなメディアで裏方を経験して振り返ると、舞台は他のメディアと比べて役者の消耗度が圧倒的に高いと感じます。マチネ(昼公演)とソワレ(夜公演)の間に昼寝する役者さんもいたりするくらい。ももクロは公演期間中にライブも挟んでいたし、主演だから登場時間も長いしで、本当に彼女たちの体力の無尽蔵さを感じました笑


最後に、この「幕が上がる」プロジェクトが成功だったかどうかは、今後の高校演劇や中小規模の演劇への注目がどの程度集まるかにかかっているでしょう。ももクロのファンにとっては、「幕が上がる」プロジェクトは単にももクロの成長過程の一部という認識かもしれませんが、演劇関係者としては小屋(劇場)に少しでも足を運んでもらいたい、という思いの詰まったプロジェクトでした。文藝春秋の別冊で平田オリザ特集が組まれていましたが、「幕が上がる」を「当てたい」と思って本広克行に映画化を依頼したというエピソードが載っていました。平田オリザは演劇を一般市民にも広く楽しんでもらえるよう、劇場に来てもらえるよう活動を続けていることで有名ですが、その彼にとって「幕が上がる」プロジェクトも演劇の良さを広める活動の一環だったのでしょう。このプロジェクトが演劇ファンの裾野を広げる役割を果たせたのか。もし「幕が上がる」を機に観劇へのハードルが一気に下がったとしたら、このプロジェクトは、ももクロの一作品という枠を超えて、大成功と言えるものになるでしょうし、(元)舞台関係者としてはそうなるよう願っています。

追記1(2015年6月1日)
大したことではなくて申し訳ないのですが、Twitter見てると、舞台に出演したいた女優さん方の知名度がモモノフさんの中でうなぎ登りですね。ももクロ関係ないツイートでも、明らかにリツイートとお気に入りの数が増加しています。特に伊藤沙莉や芳根京子辺り。「幕が上がる」の脇を固めていたのは、この年代の中では実力派と目される女優さんばかりでしたので、このようにして知名度が上がっていくのは嬉しい事ですね。是非モモノフさんにはもっといろんな舞台を見に行って欲しいです。

2015年5月2日土曜日

映画「幕が上がる」に関する若干の考察

(更新1: 7月18日画像を追加。)

またもや、ももクロネタかつ長文である。本体部分の推敲後に冒頭の言葉を書いていて、自分でドン引き笑 8000字前後あるみたいだ。これを最後まで呼んで下さる方がいたらびっくりである。この情熱を学部時代の映画研究に向けられたら、どんなに良い論文が書けたことか。。笑


先月、「幕が上がる」及び「幕が上がる その前に」をそれぞれ2回ずつ見に行ったので感想を書いていこうと思う。ストーリーに着目した感想も有意義だが、せっかく映画というメディアを使用している以上、映画だからこそ可能となる表現、個々のショットや構図に焦点を当てて分析していきたい(ただ、完全に映画分析として失格なのが、セグメントを書けないこと。前半部分がアウトでした。DVDで確認します。)。
まず確認したいのは、モノローグが随所に登場することからも自明なように、物語は、さおりの一人称の語りで一貫として語られること。途中で、中西さんとゆっこが二人で作業するシーンがあり、さおりはその場にいないが、二人を呼びに来た後輩が「『中西さんとゆっこさんはここにいると思うから』とさおりさんが言っていた」と語るように、中西さんとゆっこがその場にいることはさおりにとって明らかなことであり、さおりの一人称の語りは崩れていない。

以下、主に三つのモチーフに言及した後、いくつか疑問点を指摘したい。

第一に、注目すべきは人の向き。具体的には、演劇部員が並んで同じ方向を向くこと。この演出に特別な重きが置かれていると思われる。並んで同じ方向を向くという行為は、登場人物の心理的距離の近さや目標への一体感と連動している。では、登場人物ごとにこのモチーフについて検討していこう。
まずさおりと中西さん。二人が最初に出会うのは、さおりとがるるが中西さんに会いに行くシーン。自己紹介程度の会話をした後、チャイムが鳴ってさおりは中西さんのもとを走り去り、自分のクラスに戻る。続いて二人は図書館で偶然会う。その後、さおりと中西さんは図書館から途中まで一緒に帰るが、今度は電車通学の中西さんがさおりに背を向けて駅に去っていく(それも、自転車を引いているさおりが上がれないような階段を上がって駅に入る)。ここで注目すべきはフードコートでのシーン。前の二つと違って、さおりが中西さんを引き止めるショットでこのカットは終わり、別れるところは描かれていない。このシーンでは、中西さんがさおりに全国大会のボランティアの情報を教えてあげて、さおりが中西さんにボランティアに一緒に行こうと誘っており、ストーリー上でも明らかに二人の距離感が近づいている。二人が電車で東京に行くときは、若干間を空けているものの、ロングシートに並んで座っている。そして、ボランティア会場についてからは、二人で舞台を見ながら座席に紙を貼り付け、隣に座って観劇をする(=同じ方向を見ている)。他校の演技を見て、自分たちも良いお芝居を打ちたいという共通目標に感化された二人を表象するシーンである。
さおりが中西さんを引き止めた後、中西さんが去るシーンは描かれない
こうした心理的距離の接近を踏まえて、さおりと中西さんが感情をぶつけ合う夜の駅のシーンへと至る。お互いに本音を吐露した後、さおりと中西さんは並んで夜空を見上げる。二人が同じ方向を向くということだけでなく、星空を見上げるという重要なモチーフ(詳しくは後述)も取り入れられており、このシーンが映像的にもストーリー的にも観客に大きなインパクトを残すものであることを感じさせる。
同様の関係性は、ゆっこと中西さんとの間にも見出すことができる。物語前半では、二人が同じショットで捉えられることはない。初めて同じショットに捉えられるのは、合宿所に着いてから。たとえば、二人並んで休憩するシーンである。但し、ここでも並んでいるのは一瞬で、すぐに中西さんはゆっこに背を向けて後輩とセリフ合わせを始めしまう。二人の距離が近づいてはいるものの、まだ十分に打ち解けていないことがストーリーとパラレルに表現されている。二人の心理的なわだかまりが解消されるのは、やはり同じ方向を向いて並ぶことで示されている。中西さんがゆっこを誘って、屋上で箱に色を塗るシーンである。(お互いに相手の担当色を塗っているという「ももクロ」的演出を抜きにしても)同じ方向を向いて並んで作業することで、二人の間の心理的距離が解消されたことを視聴者は感じ取ることができるのである。
ちなみに、さおりとゆっこは元々が仲がいいから、どちらかが背を向けて去っていくという演出はほとんど登場せず、合宿中に同じベットで寝るシーンのように、二人が並ぶシーンがほとんどである(例外は、さおりが中西さんに会いに行ったとき、ゆっこが嫉妬するところで、さおりに背を向けて教室に帰っていく)。
吉岡先生との距離感という点に注目しても興味深い形式が浮かんでくる。さおりの吉岡先生に対する感情は、さおりの吉岡先生と相対する際の接し方に表れる。さおりが吉岡先生に惚れ込み、顧問になってほしいと頼むシーン。必死に頼み込むさおりに対して、吉岡先生が押されている状況だが、二人の運動は一貫して横並びの状態での並行移動である。対して、肖像画の公演が終わった後、吉岡先生が急に「行こう全国」と言い出しさおりが戸惑うシーンでは、二人はテーブルを挟んで向かい合うことになる。ここでの、さおりから先生への感情が、顧問を頼む時のような強いポジティブなものでは必ずしもないことを示唆する。

吉岡先生に顧問就任を頼むときは隣同士に並ぶ

ちなみに、これはさおり達ももクロ主演の映画のため、吉岡先生の感情が位置関係に反映されないのは当然である。冒頭に述べたようにさおりの語り・視点を中心に、ももクロのメンバーを主役としてストーリーが展開されるため、位置関係に反映されるのは彼女たちの心情である。吉岡先生からさおり達への感情は、顧問を頼まれた時よりも「行こう全国」といった時のほうが明らかに強いはずだが、吉岡先生の感情は、さおりと吉岡先生との位置関係には反映されないのである。
ラスト付近では県大会のシーンでも、仕込みの開始前、舞台袖に演劇部員は全員一列に並び、舞台を凝視し一礼をする。(記憶に間違いがなければ)演劇部員全員が一列になるシーンはここだけのはず。つまり、県大会の舞台において全員の心理的距離の近さ、目標への一体感を表象している。
最後に考えたいのが、演出家としてのさおりと吉岡先生とのオーバーラップ。正直なところ台詞だと追っかけていると伝わってこないのだが、「並んで同じ方向を見る」というモチーフと合わせて考えると、オーバーラップする部分が見えてくる。
演劇部員にとって憧れの吉岡先生は、常に演劇部員に対峙し向き合う存在である。吉岡先生が演劇部員と並んで同じ方向を見るのは、新宿のど真ん中で星を見るシーンだけであるが、吉岡先生と演劇部員とが演出・指導する側とされる側であるから当然である。しかし、物語途中から、吉岡先生は少しづつ演劇部員の前に登場しなくなる。そこで吉岡先生の代わりとなって演劇部員を演出・指導する立場となるのがさおりである。すると、ストーリー上でも映像上でも、吉岡先生の立ち位置を彼女が補完するようになる。物語の前半では、さおりが単独で他の演劇部員全員と向かい合うというシーンは出てこない。部長就任を後輩に報告するシーンでも隣にゆっことがるるがいる。しかし、吉岡先生の存在が薄くなればなるほど、さおりが演出兼舞台監督として独り立ちを強めれば強めるほど、さおりと演劇部員とが向かい合うシーンが増えてくる。ブロック大会では、客席の吉岡先生が思案するミディアムクローズアップが使われており、後から振り返れば吉岡先生の演劇部からの距離が遠ざかっていることを示唆されているが、同じブロック大会で、さおりが人差し指を高々と上げ、他の演劇部員全員はさおりの方を向いて同じ動作を行うというパフォーマンスを初めて見ることができる。県大会でも同様の合図は登場する。


さおりが演劇部全員と向き合う

さらに、さおりにとってのカタルシスの解放を感じられる「行こうよ全国」と演劇部員に語りかけるシーン。このシーンでも、吉岡先生から受け継いだ「行こうよ全国」というフレーズだけでなく、さおりが演劇部員全員を相手に向かい合うという位置関係、行為自体に意味を見いだせる。つまり、吉岡先生が演劇部から完全に消滅したことで、さおりが吉岡先生の務めていた、指導し演出するという特別なポジションを引き継ぐことができたのである(「吉岡先生→演劇部員」から「さおり→演劇部員」という関係へ)。ここに、さおりと吉岡先生とのオーバーラップを、彼女たちの演劇部員との位置関係から見出すことができる。

吉岡先生がいなくなった後、さおりが部員に「行こう全国」と呼びかける

以上、検討したように、「並び、同じ方向を見る」というモチーフの繰り返しは、部員の個人的関係や演劇部総体としての心理的距離や目標が徐々に収斂していくことを表現する上で一定の機能を果たしていると思われる。
「並んで同じ方向を見る」というモチーフが登場する他の代表的なシーンは、県大会前日の最後の練習にも見られるが、後述する「星を見る」というモチーフと同時に用いられているため、そちらで論述する。

続いて二つ目に検討したいのは、「星を見る」というモチーフである。このシーンは星空を見る登場人物の姿をとらえ、星空を映し出すという共通した手法を用いている。
劇中でさおりが言及する通り、この映画における「星」を演劇部員たちと重ね合わせるとするならば、その意図は明確である。演劇部員たちの個々の独立した状態や寂しさと、それでもどこかで繋がっているという絆、また、無限の旅を続ける星のように無限の可能性を秘めた彼女たちの可能性、こういったものを強調するモチーフとして星空の演出が導入されている。
最初に登場するのは、前述したさおりと中西さんとの駅での邂逅のシーンである。前段落で見たように、心理的距離が最接近したと思われる状態で二人が並んで夜空を眺める。中西さんの孤独の吐露、それを受けたさおりの「でも、ここにいるのは二人だよ」というセリフ。これは彼女たちの孤独と孤独の中に見出す絆を表す発話である。この会話を受けて、カメラはどう動くか。二人の引きを撮影した後、再度二人のミディアムショット、クローズアップを捉えて、観客の視点を一気に星空へと移していく。観客が、さおり・中西さんと星空とを結びつけられるように意図的なオーバーラップが示される。
続いて、登場するのは県大会前、最後の稽古の後である。明美ちゃんと3年生が5人で窓辺に並ぶシーンである。ここでは5人が並んで同じ方向を見つめるという第一に指摘したモチーフが登場しており、そこに星空を眺めるという第二のモチーフが加わっている点で、さおりと中西さんのシーンとパラレルな関係にある。ここは、主要登場人物とされる5人が、県大会を前にして各々大きなわだかまりもなく、ある種カタルシスが解放されたような状態である。ここでは各々の孤独よりも絆が強調されているが、星と5人とが連想されるような演出となっているのは明白である。無限に広がる星空とのオーバーラップは、彼女たちもどこまでも行ける存在であることを感じさせるもので、翌日に控えた大会に成功し、全国大会への切符を獲得したことを暗示しているかのようである。

ももクロの5人が並んで星を眺める

星空を眺めるシーンは実はもう一つ登場する。それは新宿のど真ん中で吉岡先生に連れられてお気に入りのスポットに行った場面である。このシーンも行為としては同じモチーフなのだが、解釈が難しく、一旦保留としておきたい。

東京で部員全員が並んで星を眺める

星とそこから連想される絆や無限の広がりといったモチーフは『銀河鉄道の夜』においても重要な要素となっているため、この点についてはDVDを踏まえてより深い議論をしたいと考えている。

最後に取り上げるのは、移動の方向に関して。モチーフと呼べるほどのものではないが、繰り返しが見られるため一応書き残しておく。
物語の中で登場人物の動きはどのように規定されているか。彼女たちは物語の中で一貫して画面の左から右へ動いていく。さおり・ゆっこ・がるるが自転車に乗るシーンは冒頭の野焼きのシーンも途中の疾走するシーンも左方向から右方向へ、さおりと中西さんがボランティアとして東京に行く際の電車も左から右、合宿に出発するバスも左から右方向へ動き出し、県大会で仕込みを開始する際も左から右へと歩む。
そして、最後のシーン。それまでカメラは客席側(面)からしか捉えていなかったものの、ここで奥からに視点を転換する。すると何が起きるか。舞台の登場人物で、上手から入ってくるゆっこやがるるが左方向から画面に登場するのである。
左方向から右方向へ、というような運動の繰り返しは物語に統一感を与える。このモチーフに運動の統一性以外の意味付けを与えたかったが、これはDVDが出てからの宿題かな。

以上、「人の向き」「星を眺める」「移動の方向」という三つのモチーフに着目してきたが、これらとは別に、シーンとしても気になった点が幾つか指摘しておきたい。まずラスト間際の部分。県大会の仕込みのショットと吉岡先生の稽古場でのショットが共通点を見せる。両者ともに映画中で唯一のスローモーションが使われており、一つ一つの細やかな動きにまで観客の注意が向くように仕掛けられている。
もう一つ気になったのが、「(悪い)大人」というモチーフ。「悪い大人」という言葉は、「春の一大事2014」で百田夏菜子がこれまで自分たちに様々な挑戦をさせてきた周囲のスタッフらを指して用いたフレーズである。本作品における大人はもちろん吉岡先生と溝口先生である。溝口先生は必ずしも協力的な顧問ではないし、吉岡先生は自ら部員を焚き付けて挑戦させた挙句、県大会という壁を前にして学校を離れてしまう。吉岡先生は正に「悪い大人」である。ものすごい単純に分けるならば、物語の構造としては、「悪い大人」に振り回されつつある前半部分から、自発的に全国大会への出場を決意する後半部分へという流れがある。「悪い大人」たちから徐々に巣立っていくのである。
「悪い大人」からの独立という点に関連して気になったのは、誰が画面を支配するのかということである。たとえば冒頭部分で引退する3年生を慰める場面ではムロツヨシを抜くショットが多いが、後半部分で学校を去った吉岡先生の手紙を読む場面では演劇部員にフォーカスが当たる。さらに、吉岡先生が学校にいる間は吉岡先生の画面上での存在感は絶大だが、彼女も物語から退場してしまう。ムロツヨシや吉岡先生が画面からフェードアウトしていくから、画面の中心を担うのは演劇部員たちになるのである。これは「悪い大人」から彼女たちが自発的に行動するようになったこととパラレルになっていると思われる。
以上二つの点については、DVDを見てさらに検討する必要がありそうだ。但し、思いつきなところもあるから、修正の余地もある可能性が笑

上記のように主要なシーン・モチーフに関する考察を進めてきたが、いくつか意図が不明な撮影・演出があったのも事実である。
たとえば、360度全方向からの撮影を試みた「肖像画」のシーン。360度の全方向からはこのシーンでしか使われていないが、この撮影法によって何を表現したかったのか。彼女たちの成長か、それとも彼女たちが感じる緊張感か、ストーリーを考慮しても、この全方向からの撮影にこだわる必然性が伝わってこなかった。

また、劇中で主観ショット(POV)が使われているシーンが2回ほどあったが、両者ともに効果が不明確であったし、一方に関しては使用法にも問題があったと思われる。最初にPOVが用いられた(少なくとも用いようとしたと解釈できる)のは、さおりと中西さんがボランティアとして全国大会で演劇を鑑賞するシーンである。ここでは、さおりと中西さんが見ている舞台上の仕込みやお芝居(POV)と、それを見る彼女たちを交互に映し、彼女たちの笑い顔や感動した表情から私達は彼女たちの視点からの臨場感と共感を味わうことができる。しかし、このPOV(さおりと中西さんが観ているもの)の視点が、さおりや中西さんが見ている位置からは明らかにズレており、空間的な違和感を感じることになっている(コンティニュイティが失われている、というかな)。コンティニュイティの喪失は、演出上の効果を減退させるだけでなく、観客側の集中力を切らしてしまう。仕込みやお芝居のシーンは映画のために撮影したのではなく他の映像媒体から援用した可能性があるため、位置的なズレが生じるのはしょうがないのかもしれないが、明らかにPOVと思われる技法を用いているにも関わらず、コンティニュイティが失われているのは演出としては不適切だと言える。
次にPOVが用いられたのは、さおりのお母さんが、自宅で作業するさおりの手元を覗きこむシーンである。POVには、登場人物との共感だけでなく、登場人物の視野に限定することで登場人物と認識する物事のレベルを同一にするという機能もある。後者の用途はヒッチコックが好んだ手法で、サスペンスによく用いられる。当然ながら「幕が上がる」のこのパートでサスペンスは不要である。結局、このシーンでのPOVからは意図が読み取れなかった。

また、他のブログでも指摘されているが、物語前半部のモノローグは減らすことができたと思う。特に、吉岡先生が「肖像画」を演じているシーンなど、さおりの表情や演出によって十分に補完できたはずだ。映画中ではほとんど使われていないが、ミディアムショットやクローズアップを駆使して編集することで、登場人物の心境を表すのは割とオーソドックスな手法である。映画で可能な演出を排除してモノローグを多用したのは、映画の演出の可能性、百田夏菜子の女優としての可能性を狭めたと感じてしまう(もちろんモノローグが物語後半にかけて減っていくことで、彼女の表現力が高まったことを表しているという議論があることは踏まえた上で)。

さらに、「その前に」によると、長回しの撮影を何度もしたようだが、本編にはほとんど使われていない。練習という意味もあっただろうし、彼女たちの演技が耐えられるものではなかったのかもしれないが、長回しを試したシーンも微妙だった。端的に言えば、リアリティのないシーンで長回しを多用していたと思われる。たとえば、さおりとがるるが中西さんに挨拶に行く場面。さおりがチャイムが鳴って自分の教室に戻るため、そこでカットが終わるが、実際には長回しもしていたようだ。しかし、細かいことだが、チャイムが鳴った後も、あんなに長く会話が続くことを想定するのも難しい。他にも、最後の稽古の日にさおりが部員全員に語りかける場面がある。ここでも長回しをしているが、「その前に」を見る限り、無理やり言葉をひねり出して間延びした雰囲気となっていた。部長があんな風に長々と同じような言葉を続けることがあるのか。
逆に、合宿中の稽古場を長回しで撮ったのは良かったと思う。あれはリアリティのある長回しだった。

最後に、カメラのフレーミングについて。本広監督の好みなのか、本当にトラッキング(レールを使ってカメラを動かす手法)を用いた撮影だらけ。普通、リフレーミングには何らかの意図(登場人物が動いているのを追う、観客のフォーカスを微妙に変えたい)が必要であるが、本広監督は平気でカメラを動かし続ける。これでは、何かに注目したくとも集中力が途切れるし、ゆったりとしたトラッキングと長めのカットによって間延びした印象を与える。

脚本についても、映画の2時間という時間的制約があったとしても消化不良な点が残った。
たとえば、明美ちゃんのスランプ。県大会前最後の稽古を見る限り、ブロック大会でのスランプから解放されている。しかし、映画を見ているなかで、このスランプからどのように脱却したのか、この点が宙吊りのまま終わってしまった。唯一示唆されているシーンとして、さおりと明美ちゃんが二人で稽古するシーンがあるが、このシーンで明美ちゃんのスランプが解消されると理解するのは困難だったと思う。

以上、繰り返されるモチーフに着目した考察と若干の疑問点を指摘してみた。
ここまで書いてみて気づいたけど、さおり以外の部員だと中西さんが明らかに物語の重要な部分を占めていて、役として「恵まれている」と思う。映像上、重要なシーンの多くは中西さんが関わっている、それもメインで。役を考えたら当然なのだが、がるるとかと比べたら明らかに多い。ちなみに、有安杏果ちゃんの演技は5人の中でもいい方だったと思う。個人的には好みの演技だった。ただ、滑舌が悪いから舞台は厳しそうだ。バラエティの対応力も低いし、映画やドラマへ活路を見いだせると良さそう。あと、玉井詩織ちゃんの場合、表情のアップが使えない舞台では、恵まれた身体があるだけで演技の幅が広がり、アドバンテージになる。彼女はモデルという道もあるが、女優を目指すなら舞台は一つの選択肢としていいと思われる。

本広監督の演出の妥当性や優劣を検討するには、さらにDVDを見ていく必要があるだろう。ただ、2回見た後の感想としては、演出がちょっとくどいのとカメラのトラッキングが気になったけど、他の本広作品の評価ほどの悪さはなかったと思う。ももクロの皆さんのお芝居はどう評価したらいいんだろう。初めての割にはよかった、とも言えるし、これから女優としてもやっていきたいなら、
もうちょっと、とも言える感じ。
他のブログでも指摘されていたが、「幕が上がる」をアイドル映画として見て欲しくなかったのなら、ももクロを感じる要素を物語に組み込むのはご法度だったはずだ。映画中にももクロを連想させるモチーフや小道具は多数登場したが、こうしたモチーフや小道具の存在はさおりら演劇部員とももクロとのオーバーラップを促進する装置となってしまう。アイドルの映画外でのキャラクターを連想させ、そのキャラクターを以て映画の演出に活用するなら、それはもうアイドル映画である。本広監督の趣味なのかもしれないが、この点については言行不一致と言わざるをえない。ももクロをあまり知らない人なら大丈夫、という声があるかもしれないが、松崎しげるが出てきたり、劇中歌でももクロの曲が多用されたり(それも歌詞がストーリーとほとんど関係ない)、余韻あるラストなのにももクロのダンスを見せられたり、と「アイドル映画として見て下さい」と言わんばかりの演出である。

そんなこんなで、やっぱり、お芝居の方がどうなるかが気になる。友人の頑張りのお陰で見に行けるのですが、お芝居出身者としてはこちらのほうが気になるところ。演劇は生身で出てこなくてはいけないので、芝居の上手い下手がもろに出る。また、映像作品とは違って小細工がきかないから、演出の腕も求められる。
ももクロ的演出が映画ならできないとはず、という期待を舞台の方には持っていたのだが、本広監督のツイート見ていたらサイリウムなんたら、と書いてあって失望。めちゃ失望。結局彼女たちを女優としては勝負させないんだなあというのが見え隠れ。本当に彼女たちを女優として扱い、アイドルの舞台ではないものとして評価して欲しいなら、カーテンコールだとしてもアイドル的、ももクロ的要素は一切排除するべきだったのではないか。
偉そうに語っていますが笑、あまり他の方の感想は読まずに、2週間後楽しみにしています。

そういえば、Twitterで出演者みんな覚えたてみたいで、マチソワマチソワ言っていて、ちょっと可愛い笑(マチソワ、とは、マチネとソワレを合わせた演劇用語)
それにしても3週間もの公演なんて大変だよなあ。普通の舞台の稽古期間の長さと言ってもいいと思う。そんなに長い舞台、スタッフでもやりたくない笑。

*写真を幾つかニュースサイト等から拝借致しました。公的な文章ではないので、出展は書いておりませんが、どうぞご容赦下さい。